2006年11月26日

宿根の星 幾たび 煌輝を知らんや*1*

領国との均衡が崩れる。
君主の崩御を表ざたにするには時期が悪すぎた。
渤国の君主である量王の心そのまま、外海を境に眼前の渤国は微かな霧にけぶりその姿を現さない。
 
いま、天領の地でさえ渤国の間者が入り込んでいる。
御社の瑠墺でさえ、血生臭い匂いをかぎ、君主の元に参じてきていたが、間者の横行は目に余る。
一説に君主の崩御の裏にも間者の企てがあったともいう。
齢五十五。死に急ぐ年齢ではない。毒を盛られたともいう。急逝すぎたせいもあるが、瑠墺の天文敦煌の知識によれば、天運星の語る通りであり、君主の宿星も衰退を表していた。国が滅びる。この運命を読んだ瑠墺の胸中やいかばかりであったか?
君主の崩御の原因が病気であれ、暗殺であれ、どの形にせよ、亡国への軋みが始まる。
国が滅びると判っておりながら、この国に留まるか?小手先だけの崩御の揉み消しがどうなろう?亡国を少しばかり遅らせたところで、いずれは、渤国量王の腕(かいな)の中。
瑠墺の身の上もそうか?
瑠墺は重臣孝道の檄におじける小姓に近寄っていった。
「柩は宮中の中庭。えんじゅの木の根方に・・・」
孝道が瑠墺に気が付くと、瑠墺は軽く頭を下げた。
「聴こえたろう?とにかく内密に・・」
小姓はまだ乾かぬ頬のまま、孝道に礼をかえすと、君主の臥する部屋に歩みだした。
小姓が歩み去るを見届けると孝道は瑠墺をふりかえった。
「この時期にとんだ事になってしまった。量王はこの国を侵食するきでおる」
血気あふるる若き量王は、この三年の間に自国の領土を武力による圧政で増やしていた。
外海の向こうの大陸に、四つの国があったのはすでに三年前のことになっていた。
だが、血気だけで、武力だけで大国を統合し支配下におけるかというと疑問である。
隣国を乱し、崩壊させた挙句僅か三年で一国のものに統治する。
「手腕と人望・・・類まれな運気。天は量王に加担するしかなかったのでしょう」
暗にこの国の滅亡をにおわしてみるが孝道は気が付かぬ顔で瑠墺に頷く。
素知らぬ顔で相手の技量を認めるところを見ると、孝道の腹は決まっているのだろう。
死に場所を定めた男は抜けるように明るい。
「いずれにせよ。おめおめ引き下がっては、いずれ遇わす顔がない」
一矢も報いなからば、いずれ君主のおわすいそはらに登るさえかなうまいと、孝道は笑う。
「共に滅ぶか?」
瑠墺の問いは己の進退を量りかねてのことでもある。
「ほろばぬわ」
孝道は苦い顔をした。
「そうか・・」
国が滅ぶ前に孝道は死ぬつもりでいるとみえた。
 
 
「巨星・・落つ・・なれど・・」
瑠璃波の言葉が量王の腕の中で途切れると量王は先を尋ねる。
「いらぬ・・男がひとり・・」
「どう・・いらぬ?」
「私にはよめませぬ・・」
瑠璃波の思念でもよめぬ?
「わからぬからか?」
瑠璃波が要らぬ男とその存在を疎むのはなぜなのか?
「味方に引き入れたところで役に立たぬ。敵に廻したら・・」
又、瑠璃波の言葉が途切れるのは星の運気をよんでいるせいであろう。
「天下を取る男でもない。だが・・」
言い渋る瑠璃波の身体をよせつけると
「おまえは・・」
言葉を選んだ。「量王が四国を治める男になる」と瑠璃波は近寄ってきた。
瑠璃波は星を読む。この特殊な才能で量王を見極め、己の地位を確保した。
瑠璃波は策士であり、量王の女である。
愛情というものとは、程遠いが量王にはどちらの瑠璃波も必要であった。
「そやつが天下を取る男なら・・・わしをすてるか?」
瑠璃波はかすかに首を振って見せたが、結句、瑠璃波がここにいる理由はそれでしかない。
女のくせに、天下国家を掌握したいか?
男なら量王に取って代わる所であろうが女である瑠璃波は己の手の中に天下を掌握した男を捕らえてみせる。
その才能と女である事を武器に量王を手中に納めている。
「こやつは・・・」
また、黙る。
「よ・・めぬ・・」
読めぬから怖しいだけであろう?
深い海で泳ぐ人間が海の深さを意識したら泳げぬようになる。
「よんでみたとて・・なにもありはせぬ・・」
「そうであろうか?」
瑠璃波よりいくらか念が強い。それだけのことであろう?
「だが・・・。この不安はなんだという?」
量王にすがりつきだした瑠璃波はか弱い女になる。
量王の後ろで天下を政ろうかというほどの女が見せる、意外なか弱さが量王の心を曳き、瑠璃波を牛耳る男が生じる。
「喪に服されもせず・・帝は中庭に隠されるかな?」
「ご推察の通り・・・」
あとは小さな瑠璃波の喘ぎに変わり、量王の褥は文字通り夢中になる。
 
代を継ぐ皇子は父の棺の前をかたぐ。
柔らかな土をすくい棺にかける頃に、皇子の執着はきれてゆく。
「とにかくは、間者をこれ以上・・・」
やっと取るべき執政の一つを口に出すと瑠墺を自室に同道させた。
「どう・・おもう?」
唐突に尋ねられた意味を察しながら瑠墺は尋ね返した。
「なにがでしょうか?」
皇子が迷うのは当然量王の侵略のことである。
皇子は皇位も継がぬまま亡国の末代として流刑の民になる。
せめてもそれが量王の差し延べる救いである。
星も流離の色を見せているが、口に出す事は瑠墺には辛い。
「生きておれるのは・・・あと、どのくらいだろう?」
「そのお覚悟であるのならば」
瑠墺はやっと重たい口を開いた。
「それまで、無駄としりつつ間者を絶つのも、無益か?」
亡国の時は近い。無益に人の命を絶ち、争いを起こし、民を苦しめるなら、あっさりと量王に座を譲り、国を譲るか?
皇子の問いに瑠墺は答えなかった。
「父君の崩御が暗殺だと噂されている事をごぞんじですか?」
「な・・なんと?」
噂でしかないがこの噂に載る者が大きすぎる。皇子よりも臣民の信を得ている孝道が犬死と知っていながら量王への決起に動き出せば共に動き出す者が幾多といる。
「事実かどうかもわからないことではないか?」
暗殺の証拠は何もない。皇子も急逝とはおもってはいるが病だと考えていた。
「彼らは共に生きた父君と共に死ねる場所を探しているだけです」
だから、でまであるかどうかなぞは再考する必要はない。
むしろ、暗殺であるとしなければ死に急いでまで供をする理由がなくなる。
「ばかな・・・」
「父君と同じ時代を生き抜いた痛みを知る者の情に踊らされる人間が五万とでてきます」
「争いはさけられぬというか?」
争いではない。彼らにとってもっともらしい理由のある死に場所を作るためでしかない。
自らの墓穴を掘るために争いという形を取る。
「彼らを宥める大きな理由が作れますか?」
亡国を覚悟した君臣に国の存続のために決起をとどめよといって通じるわけがない。
「わしはじぶんがなさけない」
皇子の呟きをそのままに瑠墺は量王の諮りを口にしだした。
「国が崩れるのは外からでは有りません。量王は間者を放ち執政の弱い所を乱しただけにすぎない」
平和な世が長すぎた。覇気のだしようも忘れはて、安泰の世をのうのうと過ごした県政者は己の欲と進退の安定しか顧みなくなっていた。国の長が誰に成り代わろうと己の身柄さえ安泰であれば構わない。量王の進撃に県政者は君主を手の平を返すようにうちすてた。是が三国の滅亡だった。
だが、この国への進撃に量王が時期を待ったのは孝道のような君臣がいたからである。
ところが護るべき君主の衰退が見えた。君主の崩御により君臣の心は割れ始める。
早まった心が量王への決起をおこす。でなければ纏まらぬ心のままでは内乱がおきかねない。内乱を回避するため争いが起きる。統一されぬ心で行われるほどもろい事はない。
「量王の懐に星読みがおります。既に父君の崩御はよまれていることでありましょう」
皇子は顔を上げて瑠墺をみなおした。
「ならば、隠しても無駄ということではないか?」
「量王にかくしているのではありません」
崩御を公然のものとすれば決起が早まる。
瑠墺はもろい決起のままに犬死する孝道を思った。
そして、改めて君主の死が暗殺だったのかどうかを考え始めていた。
量王は君主の衰退を星読みにしらされたことだろう。
時期が来た事を知った量王は間者を放った。
だが、放っておいても死ぬ男をわざわざ暗殺させるだろうか?
必要なのは君臣の決起心でしかない。
暗殺の噂をながさせるか?
あるいは、勝手に間者が量王の企てを見越してうごいたか?
いずれにせよ間者ごとき者にさえ量王の心がしきわたっていることになる。
事実、間者の横行にはすさまじい覚悟がある。
死を覚悟し、間者である事にいっさい口割らぬ。
捉えた間者は渤国のものであるという確たる証拠もみせぬまま、牢獄の中で舌を噛み切る。
間者ごときが量王の使命に命をかける。
こんな男に統治された国と戦かってに勝てるわけがない。
量王は国を統治しているだけでない。人の心をも統治していた。
 
 
漁記の宿に集まる男たちは、明るく唄う。
手水鉢の水をたたきに撒きながら絹はためいきをついた。
君主の崩御さえ知らぬ獅子は国を揺るがす間者の追撃に躍起になっている。
「今朝もやられた・・」
血生臭い話をしながら酒を酌み交わす。
命を天に任せた男は何故もこうも明るいかと絹には不思議である。
男たちの話は続く。庭先の絹の存在を歯牙にもかけていないから話は筒抜けに絹に届く。
「間者は皆細工物をみにつけている」
「細工物?」
「印のようなものなのだが、何で作られたかわからぬ・・」
「柘植か?石蝋?鹿の角?」
「しいて言えば・・鹿の角ににておるのだが・・・」
言葉をとぎらせて、杯を煽る。
「剣牙往来と刻印されておるらしい・・」
もくもくと酒を飲んでいるだけだった象二郎が
「木邑。すると・・・。これか?」
象二郎が懐に手を突っ込むと果たして、その手のひらには小さな印があった。
「と、いうことは・・又、間者を始末してきたという事ではあるの」
笑いながら木邑は象二郎の手から印を受取った。
確かに「剣牙往来」と、よめる。
「皆がもっておるのだろうか?」
一番とし若い桧田が木邑に尋ねた。
「たぶん」
木邑の言葉をたしなえたのは、象二郎である。
「血判状のようなものであろう」
「こんなものをわざわざつくって?」
桧田は木邑から渡された印をじくりと眺めている。
「これは? 牙ですか?」
海獣の牙のようである。硬い角質を細工するのも容易ではなかろう。四角い形に整えられて白く滑らかな光沢を保っている。台に当る部分の文字は昔のこの国の文字使いである。
「と、いうことは渤国の文字ですか?」
桧田は間者の在所の確証になると考えているようであった。
「それはの・・」
象二郎の言おうとする事は桧田の着目した事実を立件するよりももっと重大だった。
「象牙だ・・・」
「え?」
桧田のいくらか察しの鈍い頭でも判る。
象の牙の細工が出来るという事は渤国が大洋の向こうの国と交易があるという事である。
「すると・・・」
太洋の向こうの国ドーランと何らかの協定を結んでいるという事になる。
「まさか?」
ドーランの船戦の手腕は海賊のごとくである。
「ろくな協定はむすんでおるまい」
桧田の察した不安を口に乗せると象二郎は
「おそらく・・・。間者を仕掛け、わが国を渤国にむかわせる。この隙に手狭になった大洋側から軍勢を投入せよ。それが量王の諮りだろう」
木邑が頷く。桧田は唇をかんだ。
「つまり・・・。決起を起こしてはならぬ。我らはただ、ただ、間者のしまつをするだけだということですか?」
木邑は無念そうに首を振った。
「いずれ、時がうごく。渤国との決戦はさけられまい」
「で・・も」
桧田は『そのときにはドーランがやってくる』と、いう言葉を飲み込んだ。
眼前の渤国だけを相手にしているのなら、まだしも。
戦になれば桧田は渤国に潜り込んで量王の寝首をかいてやろうと腹積もりをしていた。
『量めが、汚い手をつかいおってから・・・』
間者を送り込み人心を不安に落とし込み、執政を戦へと煽る。
その裏でドーランと徒党を組んで置く。
「どちらがさきか、わかるまい?」
木邑の顔色に悲しい色が見える。
この国は小さな国である。ドーランが渤国を敵に廻してみた所で、どちらかの国の先鋒隊として捨石にされる。ドーランはドーランで急激に大国になった渤国を敵に廻すよりも、捨石を渤国の玄関飾りに認めてやった方が先々の国交に支障がないと判断したのであろう。
「どちらにも・・すてられたというか?」
「馬鹿にしおって、なめおって」
桧田の口から知らずに呟きが漏れていた。
「いや。渤国は拾ってやるつもりでおろう。ドーランはお供えのつもりぐらいだろうの」
「供えられるが、先か? 拾われるが先か?どちらのいいぶんがさきにしろ、わが国はいずれ渤国の属国か?」
座がしずまった。
国が滅びる。
暗黙の運命を享受せよと桧田の手の中で印が唸ったきがした。
 
絹は庭を出ると玄関先にも打ち水を撒き始めた。
絹はそっと辻の向こうを見渡した。座の中に数馬がいなかった。
数馬はおそらく有馬兵頭の旅篭に立寄っているのであろう。
絹がもう、おっつけやってくるだろう数馬を意識するにはわけがある。
数馬は仲間内でも手練れの士である。
有馬だけならともかくも、数馬まで相手では才蔵も本来の目的を遂行できまい。
「姐さん」
絹が外に出てくるのを待っていたのだろう、ひょいと才蔵が絹の傍らにやってきた。
「ちっと、手をあらわせておくんなせえまし」
才蔵は絹の手桶の前に手を差し出した。
杓で水をすくい絹は才蔵の手に流し込んでやる。
こうしておれば通りがかりの労務者が絹の水を借りただけにしか見えなかった。
「有馬は瑞樹の宿におります。数馬が側を離れれば今日は有馬一人・・」
座に集まった男たちの顔ぶれを絹は思い浮かべていた。
「わかった・・」
才蔵は頷くと絹の傍らをはなれようとした。
「抜かりなきように・・・」
絹は懐から銭を取り出し才蔵の手に握らせた。
「今はこれだけしか・・」
辻を回ってきた人の気配に才蔵はきがつくと、
「なあ・・ちっとばっかし・・へるもんじゃあるまいし・・」
行きずりの女をからかう男を装い始めた。
ずいとよってくる才蔵の思惑にきずくと絹も調子をあわせた。
「とっとと、いっちまえ」
ひしゃくの水を才蔵の足元にはたきつけると、才蔵はそれを合図に絹の側を離れた。
「やれ、やれ、絹殿自らの出迎えかと急いできてみれば・・・」
数馬は飛び散った水をふみわけ絹の側に立った。
「歩きにくいほどに、水をまいてどうした?」
通りを曲がる男の姿をちらりとみると、
「また、くどかれたといかっておるか?」
苦笑する。見目麗しい女子であらば男は黙っておきはすまい。
「すこしは、男の精一杯の褒めをみとめたらどうだ?」
「いちいち。それぐらいで喜んでたら、身体がいくつあってもたりません」
生娘らしからぬ受け答えで牽制して見せるのは数馬の日頃の絹への猛攻のせいである。
「ふん。口だけは達者だが、本には、男が怖いのであろう?」
「ええ。こわうござんすよ。特に数馬様のような男は・・・」
絹が憎まれ口を返していたが
「ひやっ」
と、声をあげた。
「おお。ほんにこわい。こわい」
絹のおいどをさすりあげた数馬が声を上げて笑い出した。
き、と、つりあげた眉のまま、
「数馬様は里にお鈴さまがいらせられましょうに」
絹は数馬を睨み返した。
「あほうをいうておれ。わしが心底ほれておるは絹殿だけであるに」
「はい。はい。聞き飽きました。お鈴さまには、本意でいうておらるると信じておきます」
「絹。わしも男じゃから女子の一人や二人はおる。だが、それは全部絹のせいじゃ」
「はあ?」
「わからぬか?」
「訊くだけ、あほらしい事をいう御口と判っておりますれば、十分です」
数馬のわけなぞ聞いてみたくもない。
が、絹の断りなぞ数馬の耳に留まっていない。
「絹・・」
数馬は絹の側にもっと詰め寄ると囁いた。
「お前がなさせてくれぬからであろうが?」
「何で・・私が!」
なんで、お前なぞに抱かれねばならぬ。
小憎たらしい男の口をひねり上げてやりたい絹であったが、この宿の常連にむげに逆らえはしない。
ましてや間者としての使命がある。男と女になりたいなぞと言われるのは心外であるが数馬のほうから絹に心安いのは絹には都合のよいことなのである。
「わしは本にお前がすきじゃあ。その口のたつ所もよい。男勝りの性も意気がいい」
「そ。そんな女子を・・・」
男のような性分がよいのなら、絹に女をもとむるはおかしいといいたいのである。
数馬は絹の言いたい事を察している。
だから、さらにこう付け加えた
「そのような女子のほうが良い「女」になる」
数馬の言葉に絹は皮肉を込めた。
「と、いうことは既によい「女」を知ってらっしゃる。「女」がいらされるわけですのにまだ、絹などが必要ですか?」
「おお。おお。ああいえばこういう。絹。いうたであろう。わしが心底ほれておるのはおまえだけだと」
「ああ。こわい。こわい。数馬様のいうとおり絹は男が怖い。上手い口で女をたぶらかそうという心根の男が一等怖い」
「絹・・・。まだ・・しんじてくれぬか?」
数馬の口説きはいつもこの調子である。
いつまでも口説かれていても埒が明かない。
「数馬様。皆様がおまちかねですよ」
「うーーん」
わしには絹をくどく方が人生の重要問題なのだがと顔をくぐもらせたが、二者択一を絹の口からせまられると、
「考えておいてくれ。わしは本気じゃ」
と、この場を絹に預けた。
「はい。はい。かんがえておけばよろしいのですね」
考えるぐらいなら考えて見ましょうと結論の見えている返事を返されると数馬もやはり立ち去りがたい。
「絹。客を座敷にまであないしたらどうだ」
横に並んだ男と女では絹を牛耳れない。
とたんに、客と女中の上下関係にすりかわった。
「どうぞ」
いつもの座敷である。
絹は数馬を案内して廊下のどん詰まりの部屋のふすまの前に座って数馬の到着を知らせようとした。
軽くかがみ込む絹を数馬は抱きすくめた。
絹の顔色は恐れに青ざめてゆく。座敷の中の連中は数馬の絹へのざれを見聞きしてよく承知している。数馬が堪えきれず絹を辱めたとしても、誰も数馬を止めに来る者はない。
そ知らぬふりならまだしも、絹に向かい「思いをはたさせてやれ」と、数馬を擁護しかねない。
「いや!」
抗った声もむなしい。
中に聞こえたはずの声に座敷からは
「おお。数馬がきたか」
と、笑うばかりである。どうせ、また絹にちょっかいを出していると皆見当がついている。そのとおりではあるが、
「ひ・・」
声を失い始めた絹の顔を数馬はまじまじと覗き込んだ。
「本に・・・わしがこと・・いやか?」
つと、絹を離すと数馬は自分で襖を開け座敷に身体を入れると後ろ手で、ぴしゃと締め切った。
「なに、しておった?」
入ってきた数馬に向けた木邑の声にこたえず、数馬が一同をねめつけまわした。
「どこの阿呆が絹に里の女子の事をはなした」
吹き出しそうな顔は皆同じである。
「おまけにご丁寧に名前までおしえおってから・・・」
それで、ますます絹を口説き落とせなくなったかと木邑が苦笑する。
「よいではないか。お前に女子がいても構わない。それでも好いとるといわれた方がよかろう」
こちらからも声がかかる。
「絹もお前を好くにも、お前の女好きをようよう覚悟しておかねばかわいそうじゃろう?」
「あほうをいうておれ。わしが絹一本に・・・」
後は黙った。
どうやら数馬の恋は本人の言うとおり心底かららしい。
絹にいったとおりであるらしい。絹がなさせてくれぬから他の女子で紛らわせているだけに過ぎない。絹一本になったら他の女子なぞ必要がない。自分でも情けないほどに絹が恋しいに、今もたったふすま一枚向こうで見せられた絹の拒絶。むげなことはできぬ。
欲しいのは絹の心底である。
だが、絹にもいうた。男である以上女子はほしい。
絹が我が物にならぬからいけないのであり絹一本にしたいのは数馬こそ山々なのである。
情けなく本音を吐露しかけた数馬であったが、流石にとどめた。
数馬の耳の奥底に絹の小さなひっという声が残り、美味くない酒になりそうだった。
「やはり、象牙か・・・」
桧田の口惜しそうな顔を見ながら数馬はさして、驚きもしなかった。
量王の目論見を推量する時に数馬はいつも、この国の外的位置を意識していた。
量王がドーランにはむかうがごとくこの国を傍若無人に属国に仕立て上げれば、ドーランの反感を底に植える。
かといって、この国をドーランの属国に譲るマネをすれば渤国の威信が地に落ちる。
量王は策を弄する。表面上はドーランの肯定を獲る。ドーランが承認せざるを得ない事態を作る。先に交易を盛んにしドーランに渤国の国力をみせつけておいて、和国を攻める協定を結ぶ。眼と鼻の先の和国の統治は渤国に託すしかない。
ドーランは大国ゆえに和国のような小国を布石に欲しいとはいえないし、何のための布石といたい腹をかき回される面倒を起こしたくはない。
両国の対戦は互いに損害を与え、国の復興に幾多の人民の労苦が伴い執政も国もこれほどのものはないというほどにがたつく。
危険なリスクを犯して勝てる相手ならまだしも、ドーランでさえ今の渤国と争うはたらされた綱に首を通すに等しい。
こういう外的情勢を踏まえていた数馬であれば象牙の印に今更驚く事もない。
「間者だと・・・どこでわかりますか?」
桧田は象二郎に尋ねている。象二郎はどこでどう見分けるのか、間者をかぎ分ける。
時に人々に紛れ昔ながらの住人のように暮らしている間者さえいる。
それであるのに象二郎は探り当てる。
「かんたんよの」
象二郎の感に寄れば簡単である。だが、「感」で得心できるわけはない。
「どこで簡単にわかります?」
眼の色が違うわけでもない。言葉も和国の言葉を流暢にあやつる。外見的にはどこにも間者と見極める事はできない。
「長い事漁師をしておるとな・・・。外海の魚と内海の魚がわかるそうな・・・」
象二郎のたとえはつまり、やはり感でしかないという。
木邑は継ぎかけた酒が足らぬと絹を呼ばわり始めている。
「よいわ・・」
帳場に言ってくると数馬が立ち上がると
桧田の相手をしていた象二郎が共に立ち上がった。
「厠か?」
そうだと頷いて象二郎は数馬の先に座敷を出た。
象二郎の背中が庭先に見えるのを横目で掠めながら数馬は帳場にあゆんだ。
絹が帳場の向こうの賄場から徳利を盆に並べて、持ってきている。
「絹。わしらのところか?」
徳利のいく場所を訪ねると
「おまちかねでしょ?」
と、先のことなぞ忘れたように明るい。
数馬は絹の手から盆をとる。
「これは、わしが持っていってやるに、絹に頼みがある。使いを一つ、頼まれてくれぬか?」
「よござんすけど・・・」
何か、うろんげな事を言い出されぬかと絹の言葉尻は歯切れが悪い。
「この先の有馬殿の宿に何か見繕って酒と一緒に届けてくれぬか?」
「は?・・え、ええ」
「どうした?」
快諾できようはずの使いにすんなり快い返事がもらえぬとなれば数馬もいぶかしい。
「いえ。有馬さまがこられておらぬのは、どこぞに出かけてらっしゃるのかとおもっておりましたので」
慌てて口裏を還すと
「ああ。そういうことか」
絹にはどこかにでかけおらぬと思った有馬が実は一人で宿にいるという事が不思議だったのだろう。
「じつはの・・・」
数馬は絹の顔を窺いながら
「絹だから話すが、有馬殿の周りに最近不穏な者がうろついておるのだ」
「だから、だいじをとって、一人でいらせられるのですか?そのほうがあぶないのでは?」
間者にすれば結構なことである。
「そうしておいて、ここしばらくでねずみをおびきよせようとな・・」
「そうですか。わかりました」
酒の肴は冷たい豆腐がよかろう。ここの小えびの甘露煮も有馬は好きだ、と。数馬は付け足した。
「はい」
返事を返しながら絹はおもう。
酒を持っていったところで、今頃は才蔵の手にかかった有馬を知るだけである。
才蔵の首尾を早くも自分が確かめに行くことになる。
その運命の手際よさに絹は微かにほくそえんだ。
「では」
絹は賄いに戻り数馬の注文をこなすことにした。
すると、背を向けた絹に数馬がいった。
「ああ。そうじゃ。有馬殿は今日よりやどをかえておる・・・」
「え?」
すると・・・才蔵の首尾はどうなる?
「どうも、むこうもせいておるようでな。ほれ、さっき、絹に手水を借りに来ていた男がおったろう?・・・・あれも、間者じゃ」
「え?」
数馬はしっていた?
「何、女子供を狙ってはこぬ。だが、絹。気を付けおれ。我らの情報を得たいがため、お前にちかよってくるともかぎらぬ」
絹の内心はおだやかでない。
才蔵の正体を知っている数馬が絹の事はいつ何時疑いだすかわからない。が、とにかくは今は絹の事は露一つ感づいてもいない。
そこだけ安心すると才蔵の事が気になりだした。有馬のいない宿にもぐりこんだ才蔵が有馬の不在を知って遁走しておればよいがまだ、有馬の隙を窺って宿にはりついているのかもしれない。とにかくは才臓に有馬の宿を教えなおし網をかけ始めている事を告げなければいけない。と、なると、絹が外に使いに出れる事も好都合であった。
「のう。絹。本にきをつけおれよ」
絹をいとう数馬の言葉は心からやさしい。
「わしとまだ、成しておらぬうちに絹になにかあっては、わしもくやみきれん」
又も、不埒な言葉に代わるのは数馬の照れなのである。
が、そんな男心に明るい絹でない。
「成した後でなら、絹がどうなってもようございますか?それだけのお心がよう、本意だと・・。その口ねじまがってしまえばよい!」
途端に、数馬はおおきなこえでわらいだした。
「絹は本に、まだ、男をしらぬな・・」
誰の手にも落ちていない絹にホッとするかのように数馬が呟き、絹の腰を叩くと促した。
「まあ、いってくれ。有馬もおまえをあいたいといっておった・・・」
「わたしに?・・」
生真面目な男で無口な部類になる。およそ、女なぞに興味はない。
その有馬が絹にあいたいなぞというかと疑問であるが、それを又、何故か数馬がくちにだすか?
「いってみれば、わかろう・・・」
腑に落ちない言葉が残ったが、とにかく才蔵が気になる。
絹は再び賄いに足を向けた。
絹の後ろから数馬がひとくさり大きな声でいいはなった。
「絹。わしが絹と一度成せば後はともにいきてゆくしかのうなる」
廊下の向こうから絹の嘲りが聞こえた。
「ご冗談を。貴方となぞなしたれば絹はその場で舌を噛みます」
「そうか」
小さくこたえて数馬は座敷にもどった。
数馬の盆はたたみに置かれ徳利の酒にてをのばすとじかに口をつける。
「どうも・・・かなわぬか?」
ついでに帳場の絹を口説いてみたものの思わしくない数馬をからかう木邑に数馬は真顔になるとぐっと手を合わせた。
「有馬が御社の瑠墺にあうまでは泳がせておく。それまでに絹がこと・・・」
「頼む・・・」
絹の正体を知らぬ木邑ではない。
「お前も馬鹿な相手にほれたものだの・・・」
「あれは・・・」
「絹のことはいいわ。我らはお前の酔狂ぶりにめをつむっている。それだけだ。絹が間者の取りもちをしている間は我らもつごうがよいが、絹自らが動いたら。命の保障は出来ぬ」
「・・・・」
大きな男は泣くのではないかと思うほど、顔をゆがませた。
「わしは・・・あきらめられん」
「天下が揺るぐというのに、色恋がだいじか?」
「わしが生きておらねば、天下が揺るごうと判らぬ事であろう?」
「数馬。わしはお前と禅問答なぞするきはない。絹がこちらにつく事がなければ、約束どおりあきらめてもらおうし、いずれにしろ絹には、一役かってもらわねばなるまい?」
女として口説けというのでない。
間者をこちらに寝返らせるのは桧田の考えのように敵陣に乗り込むための布石である。
 
岡持ちを携えて絹は小走りである。
有馬の元居た宿屋によって、はりついているだろう才蔵に数馬に告げられた本当に有馬のいる宿屋を教えねば成らない。
才蔵の正体が既に見破られているとなると絹のそばに来るのもよほど気をつけねばならない。それだけでない、やつらは才蔵を殺すきでいる。
「慎重に。そう、これでもかってほど慎重にやんなきゃ・・・」
絹も考えている。
有馬の宿と反対に走っている事がもしも、数馬の耳に入ったら。
「あ。つい」と、いう。
「定宿が長すぎて、身体が勝手に走っていっちまったんです」と、でもいおう。頭の一つでもこ付いて舌を出して「あたしもばかですよね。宿の前まで着てからそうだったなんておもいかえしてみちまったんですから」と、屈託無くおっちょこちょいを露呈してみせる。
疑われていない事が幸いで、絹の弁解はきっと、大笑いされてみすごされる。
 
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