2006年11月26日

宿根の星 幾たび 煌輝を知らんや*2*

絹は目指す宿屋の前に出るために辻を回る。
山紫水明を象った庭の椿の囲い込みを廻ると宿の前につく。
有馬がどの部屋にいるか判らない才蔵は庭の植え込みの中に身をかくして機会を窺っているだろう。
合図に印をうちならしてみよう。
いなければ才蔵も様子がおかしいときがついて、一端は撤退と決めたのかもしれない。
で、あれば、今度、又、絹の元に来るだろう。
住み込みの女中なんてお職は動きにくくて仕方が無い。でも、この国に来て寝る所さえないんだから贅沢は言ってられない。そう宥めているうちに「漁記」がただの宿屋で無いと判った。
絹の身の置き所として口利きで入ったと思っていた宿屋には、いくつかの集団を作り志士と呼ばれる男たちの棟梁格があつまっていた。
集めた情報の交換と天下国家の情勢判断。渤海への策を練り合わせていた。
そこに絹を送り込んだのである。
ここまで、念の入った仕入れが出来ていながら志士にま直に近づく材がおらず、絹のようなうら若い女子に白羽の矢が当るという事が可笑しかったが、才蔵は「男というものは女子に甘い」と、いった。
「それも、絹のように若く見目麗しいとなおさら・・・」とも、いった。
さらに「いざとなったら女子である事もわするるな」と、つけくわえた。
絹は才蔵の言葉を「身を護れ」と、いわれたと考えていたが、事実は違う。
女子の色香も情報を集めるためには十分に役に立つという事を覚悟しておけといったのである。
十八の小娘が見知らぬ異国の見知らぬ男に脅えるだろうという当り前の図式より、量王への宣誓が絹の使命を燃え立たせていることのほうを才蔵は信じていた。
その才蔵の命と首尾にかかわることである。
絹は辻を曲がる前に合図の印をうとうとした手を止めた。
なにやら向こうに人のざわついた気配がする。
人に見咎められると困る行き違いの使いの場所であるが、絹はいやな予感に引きずられ人だかりの側に近寄っていった。
庭の向こうを覗き込むような人だかりが一様にいやな目つきをしている。
固まった人の背を掻き分け絹も皆が見たいやなものの正体を確かめようとした。
「おい。おい。姐さん、女子供が見るもんじゃねえぜ」
絹に背を押された男は女の物見高さに呆れるかおをしてみせる。
「綺麗なべべを売ってるわけでも観音様のご開帳でもねえよ」
つまり男でも女でも凡そ、見たい、欲しいの代物ではないというと、
「ほとけさんだよ」
「え?」
絹が驚くをそれ見たことかとみよがしに冷たい一瞥をくれたが、
「隣国の者だっていうじゃねえか」
量王は和国を乱れさせるための布石を内からも外からも敷く。
手当たるをやたらと切りつける辻きりのような強者の出没は人心の帝への信頼を揺るがし始める。
手成れの狂い者の横行を狩るものたちが生ずるを先に読んだか、警備の兵を狩ることを専する間者がいる。これで、渤国の名が知識のあるものに浮かばぬはずがない。
満を持しつつなかなか動かぬ帝の招集をまつより、むしろ、帝の決断を促そうかとばかりに帝都に志士が集まり始めた。
が、帝は動こうとしない。
いらつく憤懣をとにかくは間者を切ることで抑えていた志士たちもこの小さな国を揺るがすためだけに送られてくる間者の後の経たない事に驚かされる。
力では勝てない。量王。言いえて然り。材の量からすべからく、違いすぎる。
柔よく剛を制すというが、この場合渤国の剛を制す柔は「知恵」しかないと思える頃、誰からとも無く「御社の瑠墺」の名が口に上がりはじめていた。
「隣国?」
絹は空とぼけて判らぬ小娘を装ってみたが、胸の鼓動が口から漏れるのではないかと思うほど大きく響いていた。
「あっちこっちで人を殺してたんだ。ばちがあたったんだ。ざまーみろって」
石の一つでも、罵詈の一つでも投げ与えようとこのひとだかりなのか?
絹は自分の身の上の先にふりえるかもしれない己の正体への人々の憎悪と怨みを生々しく感じられた。
「見ろ。聞いただけで、あおくなっちまうやつが・・・」
絹の顔色がただ事でないのは己の身の上の恐ろしさと仏が才蔵ではないのかという不安のせいであるが、行きがかりの小娘の生半可な好奇心があわれだったのだろう。岡持ちをだかえている絹を追い立て、しなければならぬ事を言い立て、絹の気分を現実に引き戻してやるようだった。
「あ?あんた。使いの途中じゃねえのかい?こんなとこで油売ってねえで、さっさよようじをすませちいな」
男の言葉にやっと絹は仏が才像かどうかを確かめる糸口を掴んだ。
「いえ。この宿の人にとどけものがあったのですが・・・」
絹の口篭る訳をさっしたのだろう。
「だーれもやられちゃいねえよ。あんたの届け先の人も無事だろうよ」
「・・?誰が・・やっつけて下さったんでしょうかねえ」
あくまでも絹も悪い奴を憎むこの国の人間を演じる。
「さあなー。この宿のもんじゃねえよ。だいいち、小僧が南天の葉を飾りにとってこいといいわれて庭に毟りに来たら、蹲の陰に人の手が見えるってんで大騒ぎになったんだとよ」
「じゃあ?そのときにもうしんでいたってことですか?・・」
「だろうな」
「じゃあ?」
「なんだってんだよ?」
女のめざす相手が無事ならそれでいいではないかと男はうるさげな返事を返した。
絹はこれ以上詮索する事は難しいと踏むと男に聴こえるような独り言に変えた。
「何で、死んだ人間が隣国の人間だってわかったんだろう?」
案の定男は聞きとがめた。
「なんでもな。隣国の奴しか持ってない妙な細工物をもってたらしいぜ」
「へえーー」
物見高さに人心地つきましたと得心顔を作ると絹はあっと声を上げた。
「それじゃあ。向こうの屋敷の縁にもお客さんがいるんですよね?」
「ああ。いたことあ、いたよ」
大工箱を踏み台にしていた男に順を譲ってもらってちょいとのぞいてみたにすぎない。
もれてくる役人の声を聞きながら死体を裏木戸から引き出すのをひとめみてみようとここで待っているのだ。
「その中に・・。背の高い三十過ぎの・・」
絹が口からでまかせを続けると、男は少しばかり伸び上がってみたが手に持ったものを踏み台にするものたちやらで庭のむこうまでは到底見えはしない。
「それがおとどけさきってことか?」
と、男は絹にたしかめた。
「いますか?」
「いや、俺にもみえねえんだ」
「ああ。ああ。じれったいねえ」
やにわに絹は岡持ちをもう傍らにいた男に持たせると、
「あんた、ちょいと、肩車でもしておくれよ」
「馬鹿いえ。子供じゃあるまいし・・」
だったら、ちょんの間でいい。ひょいと持ち上げておくれと言うと男はいやな顔をしたが
「そこに無事にいると判りゃ、私もこんな騒ぎでしたからって店に帰れるんだけどねえ?」
女の言うとおりだろう。役人が出張って宿の中からは人を出そうとしてないし、こんな騒ぎの中お届け物を持ってはいりゃ女もでてこれなくなる。
「ち。しかたねえな」
行きががりの駄賃だとばかりに男は絹を捕まえるとひょいと腰をだかえもちあげてみせた。
「あ。いたよ。ぶじだよ」
絹の眼に飛び込んできたむくろは死んだばかりの才蔵だった。
「ありがとう」
男に渡した岡持ちを奪うように取ると絹は本来の用事に走り出した。
「何でだ?なんでだ?だれが?だれが?」
才蔵のむくろが絹に教える事は叶わない。胸の中で才蔵に渡した金を数えなおしている。
だが、馬鹿な。物取りなぞのわけも無い。才蔵の腕を持ってしても切られている。
かなり腕が立つ相手。で、無ければ庭先の打ち合いに宿の者がきずく。誰にもきずかれる声も上げさせず、むくろに成り果ててみつけられる。小僧が南天の葉を取りに来ていなければまだそこに転がったまま?絹もきずかずにいたかもしれない。
「だれが?」
才蔵が有馬を狙っていると知っていたのは数馬だ。
だが、数馬は絹に用事を頼んで、それからここに駆けとおして才蔵を死体にして帰ってこれるだろうか?
無理だ。有馬自身?有馬が逆に才像をまっていた?
いけば・・わかる。才像をきった後ならば有馬にいくらかの変化があろう?血の匂い。刀の地糊を拭き取ったらしきもの。そのまえに湯をあみているかもしれない。それならば、尚、有馬だろう。
だが、有馬の腕は「立たない」を通り越して「へぼ」だと数馬がいったことがある。が、それはおもてむきのことか?
どこまで本当の事を言う男か判らない数馬である。
「こんにちは」
『漁記』の使いだと告げ、有馬の名前を出すが女将はいささかふしぎな顔をしていた。
あやしんでいる。ここまで名を語り有馬を狙うという者がいると伝えられているのか?
「『漁記』のどちらさんどす?」
「絹といいます」
「ああ。きいてます」
どうやら絹を使い立たせる約束は先になされていたようである。
 
 
「数馬?」
木邑はゆらりとたち上がった数馬をみとがめて、こえをかけた。
「厠じゃに・・いちいちうるさいわ」
数馬は振り向かず木邑に答える。
「そうか・・・」
絹の運命を思い量って泣く男の挙動は気にかかる。
「国がなからば好いた女子と行きこす土地がのうなるわ」
ゆらり、ゆらりと身体を動かすと一馬はそう答えた。
「そうだの」
木邑は数馬の背に頷いて見せる。絹が為にこそ、志士として生きて絹と共に生きる活路を開く。数馬の胸のうちが一言で語られていたが、肝心の絹の心は数馬に程遠い。
「かえてみせるわ」
呟く数馬の決心が覚悟という字に見える。
絹を生かす術は数馬しか切り開けない。
迷いと焦燥を振り切った数馬が見えると木邑は笑った。
「鈴に詫び状をださねばならぬの」
「そうだの」
あっさりと肯定した数馬の言葉に絹と共に渤海にもぐりこもうという男が見えた。
絹に己の生死を預ける。それが、絹に見せられる誠意と、腹を決めた男はともにしぬる事もある先行きのみちゆき女を絹ときめた。
「それでよいのだな?」
「絹となら・・」
絹の死は又数馬の死である。どうにもならぬ運命の足かせが絹を絡めとり絹に死を与えるのなら数馬こそが共に死を掴み取ってみせる。それが数馬に許される最大限の絹への心の傾け方であるなら殉ずるのみである。
「わかったから。漏らさぬうちに厠に行け」
前を押さえる数馬に失笑をこらえながら、この男は絹の心を掴むだろうと木邑は思った。
 
庭先にある厠に降り立つために縁から足を伸ばし踏み石に置かれたせったをはむとまだ、ゆらりと揺れながら数馬は厠にあゆみよってゆく。
「絹・・」
呟く数馬の声に
「きになるか?」
と、象二郎の声がかさなった。
数馬は厠の朝顔に小便を落とし込みながら、声をかけてきた主が象二郎とわかる。
「それもある」
「そうか・・」
幾分寂しげな象二郎の答え声である。
その声ではっきりと絹の運命を見せ付けてゆく一殺が滞りなく済み果てた事を数馬は知る。
絹が間者の男を導いた途端、間者は死を迎える。
真綿で首を絞めるように絹の足元をすくってゆく。
間者として絹はこちらの囮に落ちたと知らされてゆけば絹の進退は窮まる。
その第一歩が始まったのだ。
「そうだの」
数馬は頷く。象二郎が語らずとも事態は自分こそが引き込んだことである。
絹の元に歩み寄った間者を見かけた後数馬は象二郎に呟いてみせた。
「ねずみが一匹・・うごきだした」
象二郎は黙って座を去った。
そして帰ってきた。ねずみを一匹始末して。
「先にはいるぞ・・」
象二郎は数馬に声をかけた。黙って行けばよい物をさらに
「お前の小便は、女子を抱くように長い・・」
憎まれ口を返してみせるが、象二郎はわかっている。
いつ死ぬか判らぬ男はついつい目先の肉欲に己を没頭させる。
「絹がなさせてくれぬからの・・なおさらじゃ・・」
「ふん」
鼻先でいなして見せるが、それも判る。
『お前は阿呆じゃ』
渤国の間者なぞにおだをあげよるからだ。
「わしは・・いつも・・絹をおもうてしておったわ」
床のことが長引くのも絹のせいでしかない。数馬の言い訳は厠の外の象二郎の耳にきこえてはいなかった。
座敷に帰る象二郎に
「何かいったか?」
と、尋ね返されたが、独り言になった絹への恋情をかたることまでもが、まるで絹を相手にしている時と同じなのが可笑しくて数馬は
「今度は絹相手にながびいてみせるわ」
と、負け惜しみをつぶやいていた。
 
胸の鼓動が不規則に騒ぐ。
騒ぐ胸に構わず絹ははしりつづけた。
そして、いま、有馬の目の前に座っている絹である。
「絹さん?ですね?」
いったい有馬に絹はどうつたえられているのだろうか?
「はい」
有馬が語りだす言葉を待つしかない。
「ああ。数馬がいうたとおりの人だ」
絹は用心深い。
「数馬さまが?なんと・・」
絹の探る言葉に有馬はかすかに微笑んだ。
「私がいってしまってよいものでしょうか?」
有馬は湯浴みした様子もなければ、血の臭いのひとつもない。
少なくとも才蔵をやった相手ではない。
それだけは確かだった。
が、うっかり信じてはいけない。
影でどう動いているか、絹には依然として正体の掴めない男であり、かつ多くの志士の信奉を集めている。
が、不思議に穏やかな人柄が絹を魅了してゆく。
「どういうことでしょう?」
「貴方の事は、数馬から幾たびとなくきかされております」
「一体なんと?」
数馬への興味からではない。
有馬と云う男が数馬を認め擁護しようとする何かを感じ、
一体有馬が何を感じたのか。
それが気になった。
『確かに惹かれる』
有馬は、絹が数間と対峙した時のものとは違う物を見ている。
それが何なのか無性に気になる。
気にさせる人柄を持っている。
常人とは違う、視野を持っているとおもわせてしまう。
「数馬は貴方に命をかけるきでおります」
数馬本人がそういったら、絹は一笑にふす。
だが、有馬に言われると考えさせられる。
だが、
「ならば・・里のお鈴さまはどうなります?」
「嫉妬ですか?」
類推の類ではない。絹の心だけを尋ねている。
「いいえ。でも、あれやこれやとあちこちに女子がいて、絹が事に命をかけているといわれても:::」
有馬はふうと溜息をついた。
「男は弱いものです。ほんに惚れた女を国の礎という道具にしたくはないものです」
有馬はなんといった?
絹はもう一度尋ねずにおけない。
「国の礎?ど・・どういうことです?」
「出来るなら数馬は只の男と女として絹さんに相、対したかった。けれど、それが出来ない。迷う数馬は他の女子で絹さんを忘れようとしたことでしょう。だけど、其の結果は裏目に出る。数馬は一層、絹さんへ思いをみせつけられることになる」
有馬の言う事は数馬の心情である。
だが、わざと絹の答えをはぐらかしていると判らぬ絹は恐れを抱きつつ有馬に尋ね返した。
「礎というは・・・どういう?」
有馬の瞳が哀し気だ。
「わざわざ、ききたださねばなりませんか?」
絹が逆に問い直された。
「それは・・」
それはつまり、絹が渤国の間者としっているということか?
絹との恋は両国にまたがる虹のようにはかなく、それを現実のものにするためには、和国の存亡をかけなければならない。
結局、和国の存命のため絹はころされるしかない。
絹への恋は、数馬が志士であるからこそ、絹を追い詰める。
こう考えて里の女子で気を紛らわすしかなかったというのは判る。
だが、有馬の言う数馬は命をかけているという言葉がむじゅんする。
「ならぬ恋は重々承知の上。それでも、数馬は絹さんとの活路を切り開こうと・・」
「私が・・」
何者なのかしっていらっしゃるのですね?
当て推量でしかないかも知れぬのにわざわざ自分から正体を露呈させてどうなる。
周到な計画かもしれない。
事実を言った途端絹の命は才蔵よろしく見事に事切れ
有馬達はまた、ひとり間者を始末しただけに過ぎなくなるかもしれない。
「絹さん。それをいっちゃあいけない」
有馬はどう察したか。
絹の飲み込んだ言葉を飲み込んだままにしておけといったが、
「絹さんが命を守れる男は数馬しかいない。わたしは::」
有馬はぐっと拳を握った。
「私が絹さんにいえることは、数馬にすがるしか絹さんの活路はないということです」
間者だと気が付いているとするなら、有馬の言う事はあるいはおどしのようなものである。
数馬が和国を救うため絹を礎に利用する。
だから、絹は間者でありながら才蔵のように殺されずにすんでいる。
「数馬は自分の気持ちを汚されたくなかった。絹さんと暮らし、只の男と女の一生をゆめみたかった」
そうなのかもしれない。
そうなのだ。
確かに絹の正体はばれている。
数馬の仲間は絹をも切ろうときめたことだろう。
だが、数馬がそれをおさえた。
その交換条件は絹を渤国より寝返らせ、和国の僕にさせることだったろう。
そして、其の交換条件を真のものとして成りたたせてゆくものが、絹が数馬の女になることだったのかもしれない。
だが、いくら絹が数馬に言われても本気にも取れず、ましてやその気にもなれなかった。
もっと、早いうちに数馬に本気になれて間者の使命も忘れてしまえたなら、その昔、絹は間者だったと笑って話せたことなのかもしれない。
だが、間者の横行が繰返され渤国の譲らざる魂胆が見えたとき、
絹は間者の使命を忘れてただの女になる道も閉ざされ数馬の苦しみが始まりだした。
「どんなにか、絹さんの事は逢わなかった人と諦めようとしたか」
が、絹の進退が見え始めた時、数馬は絹の死が読めた。
そして、数馬の決心が固まった。
絹を殺すしかないなら、数馬が殺す。
だが、何か法がある。抜け道がある。
絹を生かす法。
間者ゆえに殺されるなら間者ゆえに生きられるのではないか?
こう考え付いた数馬の身体にはその時おびただしい汗が噴出していた。一言で言えば恐ろしい。
生きるにしろ殺すにしろ絹を我が物にするに、国を天秤にせねばならぬ。それは数馬の国と絹の国。心のうちでも国があらそう。
心の中で国があらそう。
現実に起こっている事がそのままふたりの心でおきる。
数馬に国が捨てられないのと同じに絹もおなじだろう。
捨てれるものならきっと、とうに絹は数馬の手の中で只の女をさかせていただろう。
「貴方の話してはいけない事はいっとう最初に数馬にこそ話して、数馬にすがるしかない::それが今のあなたを護る唯一の法です」
有馬が絹を間者としりつつ、きろうとしない。
言葉の後ろにある抜き身の刃がちかりと光をきらめかせている。
「わかりました」
そういうしかない。
言わなければすなわち絹は既にしんでいるといってもよい。
数馬は絹が間者であることを利用しようとしている。
ここに気が付くと絹は判った口の下で臍を固めていた。
絹が寝返ったと信じ込ませて利用されるふりをして志士の動向に乗る。是が上手く行けばこの事が切欠で和国をあっさり量王の手にささげる事につながるかもしれない。
あくまでも絹は間者以外の何者でもない。
若い娘が和国の言葉を覚え、一人で敵地にもぐりんだのである。
自分の命と引き換えに国を、量王を売る気なぞ更々ない。
そして、やっと絹は才蔵の言葉を知る。
才蔵は「男というものは女子に甘い」と、いった。
「それも、絹のように若く見目麗しいとなおさら・・・」とも、いった。さらに「いざとなったら女子である事もわするるな」と、つけくわえた。
絹は才蔵の言葉を「身を護れ」と、いわれたと考えていたが、事実は違う。女子の色香も情報を集めるためには十分に役に立つという事を覚悟しておけといったのである。
十八の小娘が見知らぬ異国の見知らぬ男に脅えるだろうという当り前の図式より、量王への宣誓が絹の使命を燃え立たせていることのほうを才蔵は信じていた。
才蔵が信じる絹が生じたとも知らず、有馬は絹の覚悟は和国の男に委ねられた考えているようだった。
「数馬は絹さんのためなら、なんでもします」
けして絹の決断を後悔させる男ではない。
有馬が胸を張って数馬を絹に押すのが不思議だった。
さらに、有馬は絹に
「数馬を宜しくたのみます」
と、頭までさげた。
絹が間者であると知っている有馬である。
捉えた渤国の間者が口を割る事を拒み死を持って黙秘に替えるも見聞きしておる筈である。
絹の了承をまがい物と知りつつ和国を救うため利用しようとしている。どちらの頭の切れが流れをとらえるか?
水面下でのしのぎあいになる。
是が判らぬ有馬とは思えない。
が、数馬を思う有馬の心に芥ひとつなく、絹と結ばれる数馬の行く末を絹に託したいとあまりに純粋すぎる。
『貴方は、そうやって人の事を想うのですか?』
是が有馬の元に人が集まる由縁かもしれない。
『量王?貴方は、とんでもない男を敵にまわしているのかもしれない』
ならば、なおさら、この機会をのがしてはいけない。
窮鳥、懐に飛び込むばいずくんぞせむ。
とて、己の懐の広さを信じる馬鹿な男を伝に絹の間者としての使命は拡大する。
「絹の命をあずけます」
大きな嘘がしゃあしゃあと口をつく。
が、あながちうそでもない。
絹の搾取が不成功に終ったと知られたとき絹は一刀の元にこの世に別れをつげさせられるだろう。
命をかけあう駆け引きを陰謀とよぶものかもしれぬが、絹の陰謀は決意と云う色に染められ、うたかたの恋を演じるをよぎなくされた。
 
 
 
漁記の宿にたどり着くと、絹はまず数馬の座敷にかおをだし、有馬への言付け物を届けたことをしらせる。
「ごくろうだったな」
木邑の目が笑って数馬をみる。
「絹がおらぬとおもしろくないようだ」
数馬に酌でもしてやってくれとばかりに徳利を絹につきだした。
「はい。よござんすよ」
木邑の手から徳利を受取ると絹は数馬ににじりよった。
「おお。絹か。絹のご帰参か。恋しい、恋しい、絹殿が御自ら酌か?」
いささか、酩酊を見せている。
「もう、ずいぶんよってらっしゃるようですね?」
「そうでもないさ」
「なら、よござんすけど」
「そうさ」
絹の顔を真正面から見詰める。
「で?」
数馬が尋ねたい事は有馬に言われた事をどうするかと云う絹の答えでしかない。
それと察するのか一座が急に静まり返り、皆の目は絹にそそがれている。
「なんですよう?しんとなっちまって、へんじゃないですか?」
絹は居たたまれぬ空気を断ち割るために、大きく笑った。
『数馬のおんなになります』
こういうのさえ、衆目の中に晒されなければならない。
間者と云う己の立場を皆がしっていたということでもある。
「数馬様にはあとで・・はなします」
この場の宣誓をやり過ごし、絹は振り返り、座敷の者に徳利をすすめだした。
「絹。やめないか?」
途端に数馬の荒い声が絹を制した。
「はい?」
空とぼけた返事を返したが絹の顔色が蒼白になるのが自分でも判る。
絹は酌をするふりをして一座の中に才蔵をきった男がいぬか、をかぎだそうとしていた。
数馬は絹の挙動の下の目論見をみやぶっていた。
だが、それは数馬にとってどういうことになるか?
絹の心底は渤国のものでしかないと露呈している。
それは、後で返事をするといった絹の答えそのものになるのか?
数馬を上手く牛耳る筈の絹にとって、想わぬ失策を呈した事になる。
だが、数馬が絹の挙動の下の目論見に気が付くという事を、裏返せばこの中に才蔵を切った者がいる。と、いうことでもある。
誰かが、そう、おそらく、あの時数馬こそが才蔵を始末せよといいえた。数馬の言葉をうけて、誰かが座を抜け出て才蔵を始末している。
この事実があるからこそ、才蔵が始末されている事を絹が見聞きしていると確信している。
わざわざ、有馬の宿に向かわせる算段を取った裏に絹が才蔵に新たなる有馬の宿をつたえにゆくともよんでいる。
と、なれば、当然絹は才蔵の死をしっている。
才蔵に死を与えた男を嗅ぎ取ろうとする絹と判る数馬である。
「絹。先の事さそくに答えをきかせてもらうことにしたいの」
間違いなく何もかも数馬の手の中でしくまれたことでしかない。
やにわに立ち上がった数馬が絹の手を引きたたせると、座敷の外に絹をひく。
「ど・・どこへ」
「きまっておろう」
座敷を出た奥の離れには、男と女の逢瀬を手引きする小部屋がある。
そこで、ときおり一介の男と女がもつれあう。
判っている事ではある。宿の女中の絹には周知過ぎる場所である。
だが、この宿の女中の絹が自ら其の場所にむかわされる?
「お前の答えをきいておらぬうちから、むたいはせぬわ」
人を遠ざけて話せる場所はそこしかないと数馬はいう。
だが、絹の答え次第では数馬の手中に落ちる。
それは数馬の言うとおり確かに無体でなくなる。
足を踏み入れた離れは焚き染めた白檀の香がきつい。
「まるで・・寺のなかだの」
呟くと数馬はそのまま、その場にどかりと腰を落した。
「まあ。絹も座るがよい」
黙って絹も座った。
数馬の前に真っ直ぐ座った。
「絹のこたえをきこう」
促された絹であるが
「・・・」
黙ったままである。
「おまえのことだ。これも間者の使命と腹をくくるきだろう?」
そのものずばりと突きつけられれば絹もいいたいことはいくらでもある。
「あたしだって、いつだってしぬきでいるんだ」
「そうだろうの」
数馬の答えは間者の絹のとうからの覚悟を読み取っており、あっさりとうなづく。
「だから、有馬の所であたしの正体が知られていると判った時は
是で終わりだっておもったよ」
「それが、どうして、自害もせずここに舞い戻ってきたか」
「そ、そうだよ」
確かに数馬は絹の先先の考えまで読んでいる。
「で、逆にわしが事を受けるふりをして、量王に忠義を尽くそうと考えた」
はすっぱな女が取り繕った初心を見破られ、声高に開き直るに似ている。
「で、なけりゃあ。なんで、あんたになんか」
絹の叫びを聞く数馬はふふとわらいをもらした。
「量王のため死を供えるも恐ろしくないお前が女になるが如きに悲壮な覚悟だの」
「え?」
「量王より、お前は自分の女をなくす事の方が一大事だろうが?お前なんかというが、それは、絹の覚悟は決っておるという事だの?」
数馬の手が絹をつかんだ。
「それでよいというんですね?」
絹の手の内は晒した。座敷での失態が進退を極めさせた。
間者としての使命はけしてなくし得ない。それが駄目なら絹は死をあがなうだけである。だが、数馬はそれでも絹の生ごと絹を求める。
ならば、絹は間者としての使命をまっとうするしかない。
『あたしが間者だって判っていて、それでも、仲間にひきいれるんだ。あんたとあたしの知恵比べに。あんたは間向こうからうけてたつっていうんだね?』
この男を殺すかもしれない。
この男に殺されるかもしれない。
だが、其の前に絹は数馬の制裁をうける。
心を与えぬ結びは陵辱でしかない。
心をくれぬ女に与える結びは陵辱になる。
数馬の心を捨て去る罰が、絹の身体を切り裂くような痛みで貫いてゆく。
「絹。覚えて置け・・」
数馬の言葉が絹の身体に楔をうちこむ。
「女子はけして、男を牛耳る事は出来ない。女子はこの時から男のものになる。女のさがにはさからえない」
絹を穿つ動きを大きくして数馬は絹に教える。
「今のお前は心より先に身体を許したにすぎない。だが、いずれ、その身体が心を教える。この時からもう、お前は俺の物だったということをだ」
痛みを堪える絹の耳は数馬の言葉を更に堪えるしかない。
『お前の物になぞ・・ならぬ』
だが、絹の心には数馬の言う通りだと思う姉瑠璃波の姿がうかんできていた。
天下を牛耳る男を手中に納めるといった姉は星を読む。
読んだ男を我が手に納める為に瑠璃波は量王と云う男の腕に女として落ちた。
量王を手中に納めたはずの瑠璃波であるのに、
いつの間にか量王の手のひらに乗せられている。
少なくとも絹にはそうみえた。
なぜなら、瑠璃波は自分に向けられる量王の心を欲し始めていた。
に、比べ量王はたやすく手に入れた女の天性の資質と甘やかな肢体を舐め尽しているにすぎなかった。
瑠璃波に星読みと云う才分がなければ、おそらく見向きもしなかった量王である。
その量王と褥を重ねるうちに瑠璃波の立つ位置が変わり始めている。
情がからみだした星読みが読む深さをはかりそこねている。
大まかに言えば瑠璃波の読んだとおりになる。
だが、わずかながら、誤差がある。
慎重になった瑠璃波は確定事項しか、いわなくなった。
だから、絹が気が付いた。
「絹・・おぼえておけ」
耳を塞ぎたくなるのは瑠璃波があわれだからだ。
男を追う女に成り下がった瑠璃波があわれだからだ。
けして、数馬の言うとおりの絹にはならない。
呪文のように心に言い聞かせる絹の耳に数馬の言葉が流れ込んできたのは数馬の言葉が意外すぎたせいかもしれない。
「絹。俺はお前の物だ」
絹の女を牛耳ろうとしている数馬が吐くはずもない言葉過ぎる。
「え?」
思わずききかえした。
「俺は絹に心底ほれておる」
閨の睦言になったせいか?
何度となく言われた言葉に何度剣突を返した。
じじつ、心底、冗談じゃないと疎ましく思った。
なのに。
数馬は本当に本気なのだと絹はわかった。
知ったのではない。頭ではない。言葉ではない。
絹を抱かずをえない男のさがを見せ付ける今のこの姿態のせいでもない。以心伝心にも似た得心がわき、自然と絹はわかったとしかいいようがなかった。
『あんた・・なんで、あたしなんかを・・』
不思議な得心は絹自身をふりかえさせる。
こんなおんなのどこがよくって?
自分の女を観察したくなる。
「絹・・・絹・・」
絹を呼ぶ男の高みを知ると命をとられるかもしれない女に惚れてるという男の馬鹿さ加減が妙にあわれになってきた。
『そんなに。あたしなんかが・・いいって?あんた、ばかだよう・・・』
確かに、数馬にほだされ始めている絹である。
それが、男と女の稜線をこえたせいだと解り、絹の中に芽生えた物が大きく芽吹くのはもう少し後になる。
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