くるのが、当り前の顔で絹ににじり寄るが今日の数馬は絹の前に正座した。
「なんですよ?」
いつもの軽口から始まる男と女の戯事の要求ではない。
漁記の離れの奥座敷でみせた数馬の慇懃無礼ににてもいる。
「絹は量王に忠誠を尽くすつもりで、俺の物になっているのだろうから・・」
漁記の離れでの一件以来、絹は何度か数馬に抱かれていたが、当然数馬も絹の間者としての目論見を承知している。
承知している事をわざわざ、正座していいだすには、わけがあろう。
「実は・・・」
中々、言い出さない所がいつもの数馬らしくなくて、絹は笑いだしていた。
「なにをそんなにいいしぶるんです?」
いつの間にか数馬の性質をにくからず思う自分に気がついて
若い、娘らしい項がそっと色を染めた。
「いや・・つまり・・」
数馬が言い渋るわけは実に単純である。
今日の夕刻のことだった。
連名の志士達と策を練ると称しながら連帯を深める遊行に興じているだけで、日がたって行く事にいささか疑問を感じ始めていた数馬に一つの決断をせまられた。
―有馬が御社の瑠墺にあう。数馬は絹を同道せよー
是を絹に云えば、絹のことだ。間者の絹だ。喜んでついてくることだろう。
だが、是を絹に伝える事はいよいよ、絹を利用する数馬でしかないということである。
絹は渤国の間者である。出来れば絹をこちら側に寝返らせたかった数馬であるが、まだ絹の感情を突き崩す所までの男と女にはなりきれて居ない。
絹は密命に奉じるため、数馬の「女」になったにすぎない。
が、是も覚悟の上。いつかは、絹を替えて見せると腹を括ってみたものの、現実、絹を動かす餌をまくのが自分であるとなると、絹への純情が数馬の胸を締め付け、一緒に来いという、簡単な一言さえ口に出せない有様である。
それが、モソモソと顎をなでさすっていると、切り出す機会を見計らう数馬にみえる。
「なんですよ?」
この人はついつい、真剣なのだと絹は思う。
本当に言いたい事の中身はなかなか伝わらないから、絹が気がつかなかっただけでいつも「絹には心底、惚れている」と本気で云っていたのだと思う。
顎をさすっていた数馬が意を決したかと思うと口から出てきた言葉が
「俺は本当に絹に心底だ」
だったので、絹はきょとんと数馬をみつめるだけになった。
「はい?」
「だから、俺は、できれば、お前を連れてどこかににげてしまいたい」
何かと思えば逐電の相談なのか?
絹は首をかしげながら数馬の言葉を待った。
「だが、そうはいかない。俺は・・」
数馬がまた黙る。じりじりする思いを抑えながら絹は待った。
「お前が俺にくらいついていてくれるわけをなくしたら、
お前は俺からはなれてゆく」
数馬は有馬兵頭に近しい人間である。
近しいのは、数馬が「志士」だからだ。
志士を放棄した数馬など、絹には何の用もない。
「だから。有馬が御社の瑠墺にあう。お前も俺と一緒にこい」
一気にいいはなつと、数馬は絹を引き寄せた。
「わかるか?」
間者としての使命なぞでついてきて欲しいわけじゃない。
だが、ふたりの結びつきも、絹の命も絹が間者であることでなりたっている。
数馬は成り立たせる事を選ぶしかない。
辛い選択でしかないのは初めから。
だから、せめて、今、絹が「数馬の女」である事だけに没頭したかった。
数馬の言葉に絹は不思議に、素直に頷いた。
そして、少しだけ数馬に惹かれ始めている自分を牽制してみたかった。
「あんたの負けだよ」
数馬は鸚鵡返しに答えるだけだった。
「ああ。お前の勝ちだ」
数馬の手が絹を弄る頃には、絹は本当にこの男を操っていけるのだろうかと、考え直す事さえ忘れさせられている。
すでに数馬と云う男に組み敷かれた女が、意識さえ抗う事も置き去り、甘事に酔う女になりはじめていた。
有馬兵頭の宿に出向いた男は桧田藤吾。朽木象二郎。そして、工藤数馬の三人だけだった。
志士連隊まで引き連れる事は当然、衆目の目を諮れば、おのおのが別行動でということになったが、有馬兵頭の剣の腕はすこぶる悪いときいている。
本人が語るにも今まで生きこしてこれたのが不思議なほど「へぼ」なのだそうだが、若いころには剣術指南所に通っており、一応は免許皆伝とあいなったという噂ももれきいている。
是が本当なのか本人が言う「へぼ」が事実なのかをしろうにも、どういう運命の強靭さなのか、いまだかって、有馬が刺客に狙われながら、刀を構えるどころか、抜刀さえせずに事無きをえている。
いくら、天が味方するかと思うほど運の強い有馬だとしても、有馬一人で御社の瑠墺の元にいかせた道中で、刺客の狂刃に露と散った後に、『有馬のへぼ』は本当だったと知るは愚かである。
有馬の道中を警護する人数も目立たぬようにと3人に絞った。
腕が立つ人間を選ぶのは造作もないことであるが、今回は是に加え絹という間者を同道させる。と、なれば、まずは、数馬を人選するのは当然である。
帝都までの道に明るい桧田藤吾。そして、間者をかぎ分ける嗅覚に優れている朽木象二郎。素知らぬ顔で絹からの情報を得ようと通りすがりの旅商人をよそおってでも接触してくる間者も居るかもしれない。なれなれしく近寄ってきた、旅の人間をうたぐったあげく、うっかり、和国の同胞をきるわけにはいかない。朽木象二郎の鼻は多いに当てになるとふんだ。
女一人を含む道中五人は、いかによそおっても、不可思議な塊であろうが、
有馬の物柔らかな外見は見ようによっては大家の旦那衆にみえなくもない。
あっさり、商人装束に身を固め御付に警護されての物見遊山をきどってもいいかもしれない。
桧田の案に有馬は
「では、そうしましょう」
と、こだわり一つもみせない。
とは、云うものの形を繕うとなれば有馬の腰のふたふりをどうするかと考え
あぐねることになる。いくら、なんでも、まさかの時を考えれば、やはり商人装束は危険でしかない。どうせ、小手先を替えてみた所で有馬の命を狙う間者には通じない事である。
「まあ、しかし、人心が不安の只中。妙な一行が帝都を目差すというだけでも、まかり間違えればこちらが間者とおもわれかねない」
有馬はにこりと笑うたまま、絹をみた。
「良く、いらっしゃって下さった。絹さんには早速で申し訳ないが御付のお女中という役をかっていただきたい」
相変わらずしっとりとした優しい笑顔を見せる有馬はさらにつづけた。
「それで、まあ釣竿を二つ、絹さんがもってくださればいいと思うのですが」
有馬の言い分に慌てたのは桧田である。
「ま、待って下さい。有馬さん。貴方、この女が何者か判っておいででしょう?」
釣竿に見せかけるはよしとして、それを間者である女に持たせるとは、豪を過ぎる。たわけた行動である。
「大丈夫ですよ。ねえ?絹さん」
有馬はこともなげに絹に同意を求める。
そして、黙って腕を組んで成り行きを見守っていた数馬をふりむくと、
「だいの男が命をかけて惚れた女です。大丈夫ですよね?」
どうして、有馬は此処まで人を信じれるのか不思議な気がするが、信じるとは惚れるに似たようなものだといわれているように思えて数馬は
「大丈夫です」
と、答えたくなった。
「ほら、ごらん。だいじょうぶですよ」
何の根拠も無いのに、「ほら、ごらん」という有馬にあきれ、言葉を詰らせた桧田の喉の奥が
「ぐう」
と、唸ると、有馬はこれも
「ほら、そうだといってる」
と、安易な選択を肯定してしまった。
こうなったら桧田も仕方が無い。
桧田藤吾は絹をにらみつけていう。
「馬鹿なことをしたら、お前の命がないぞ」
命なぞいらない間者に命をとるぞと脅す事なぞなんの役にたたないのであるが、有馬の決定を覆すより、絹を脅した方が早いらしい。
こんな調子で言い出したら聞かない子供のような無邪気さで、有馬は「この国を護りましょう」といったに違いない。
良いと決めたら信じたとおりにやってしまうこの無邪気な行動力に魅せられた男達は、それゆえに有馬が言い出したことに逆らえないのだろう。
有馬の持つ不思議な魅力は、有馬があまりにも純粋すぎる子供を胸にだかえたまま、大人になったせいなのかもしれない。
そして、絹は実際、有馬の刀を渡されると、「うらぎれない」とおもうことになるのであるが、もうひとつ、
自らの命を護る道具を間者に預けてまで、会いに行こうとする御社の瑠墺という男がただものでないと思わされた。
「あの、御社の瑠墺というのは?」
どうせ、何を探りたいのだと撥ね付けられるだろうと思いながら絹は尋ねてみたが、有馬はそれを答えるのさえ臆せず、あっさりと
「天文敦煌に秀でた男です」
と、返してきた。
と、いうことは、
「星読み・・・と、いうことですか?」
絹の姉、瑠璃波と同じ宿生である。
「そうとも云いましょうが、どうも、ただ星をよむだけではないらしい・・」
絹の姉は星読みの宿生を武器に量王にとりいった。
だが、姉と違い御社の瑠墺と云う男は星をよむだけではないらしいという。
「どういうことでしょう?」
絹が首を傾げると、有馬はとつとつと喋り始めた。
御社の瑠墺が星を読む。
この時、例えば在る場所において、天変地異、地震が起きると知るとする。
通常、星読みならこの自然の起す天啓に逆らうことはしない。
黙って自然のなすがままの選択に任せる。
天の思惑に人間風情が抗う事が間違いであるとしっているからである。
天により何らかの淘汰を受けなければならない人間の宿命を変えた時、その
歪みがどんな形で起きるかわからない。
例えば、地震で命をなくすはずの人間を救い出してみても、天が彼らを狩ると決めている以上別の手立てがこうじられる。
実際、多くの人を救い出してみたものの、その中から疫病がおこり、狩るべき人間を擁護した罰を課せられたのか本来無関係な人間までも巻き込んで、大きな被害を生じさせた例がある。
天の思惑に逆らう事の畏敬を知る星読みは、宿命を読んでみるだけである。
読んだ宿命を知る事により、新たな手段を講じられるのは事実であるが、衰退に歯止めをかける事は具の骨頂になるだけである。
つまり、自らの負の運命をしっても、是を変転できるのは星に煌輝を持つ人間に限られる。
少々の芥や塵謎を燃やし尽くす灼熱をもたない星は堕ちるしかないのである。
ところが、大きすぎる光を持った星の事は天の帰結に従うしかないのであるが、小さな星ひとつの存続は先の徹底に反して、御社の瑠墺の思いや、願いを天が聞き入れるときがある。
実際、余命いくばくもないと医者に見離された幼い少女が、御社の瑠墺の延命祈願を受けると病の痕跡すら残さぬ健康な体に立ち返っている。
むろん、天とて、御社の瑠墺の言う事なら何でも聴きとどけるわけではない。
いくら、願っても祈っても、宿命の星の色が変わらない事の方が多いのだが御社の瑠墺の思いは天と疎であるが通じている事は間違いが無いのである。
「星読みだけでない・・」
絹は有馬に聞かされた事を繰り返しつぶやいた。
この「御社の瑠墺」という男の事を姉、瑠璃波が「読めない」と恐れを抱いたことなぞ知る由もない絹である。
が、姉妹の血が成せる技か遠く地を隔て、姉妹は同じ男に只者でないと思うのである。
姉、瑠璃波に和国に行ってくれと頼まれたときの事を絹は思い出している。
「量王の運気は盛栄を現しているが、その星の後ろに居る穏星が、量王の星に影をさす。よもやと思うが・・」
誰にも告げられない事実は、妹だからこそもらすことができた。
「その影が何者であるかをみとどけてほしい」
それだけであった。
その影がなんであるか、誰のものであるかは瑠璃波にも判らない。
判らないから不安で仕方が無い。
量王を愛し始めた姉の「よもや」を恐れる女心が痛くて、
絹はうなづいた。
表向きは和国のへ間者としてでむくとして「剣牙」の修養をうけ、和国にきたが、その影がなんであるのか、みつけられないまま、今に到ったのである。
その影が、この御社の瑠墺の存在が落す物であるか、どうかも、判らない。
だが、探る価値があると絹は思った。
思ったからこそ、御社の瑠墺をこの目で見てみるまでは、有馬の命をねらうのはやめるしかなかった。
志士連名の頭角の男が星読みに逢う。
すなわち、決起が集束する。やがて、渤国との戦が始まる。
この点でも姉の言う、量王の星に影をさす大きな要因になる男とおもえた。
動きだした妹、絹の星がいっそう輝きをまし、穏星にまばゆい光を差し込みだしている。
絹は量王の星の影にさす者に近づき始めている。
今は影を作らす事の出来ないまばゆさで穏星をも照らしているだけだが、絹の星の輝きがませば灼熱の光で一瞬で穏星をやきつくすかもしれない。
瑠璃波は絹の星のまたたきが穏星を照らし始めていくのを、ぞっとした思いで眺めていた。
量王を護る宿命の強さが絹を支配している。
穏星を焼き尽くす事が叶えば、邪魔者もなく量王の星を輝かせる。
そして、この事は、瑠璃波もまた、量王の星の煌輝を損なう存在でしかない
として、絹の宿命に滅ぼされる自分である事を教えられていた。
「どこにおいやっても・・あのこは自分の宿根のままに生きるだけなのか」
三年前、瑠璃波は天空に突如現われ輝く量王の星をみつけた。
蒼碧に光る星に瑠璃波の魂まで吸い寄せる魅惑があるを知った瑠璃波は量王を我が物にするときめた。
だが、量王の星の瞬きをいずれ際立たせる朱色の星が量王の星の遥か後ろにある。
年が経てば、量王の重鎮になる腹心のものか、あるいは伴侶になるものか。
瑠璃波は「腹心」の星であることを祈りながら、量王の遠く後ろで瞬く宿命星の持ち主を読んでみた。
「なに?」
あのときの衝撃は今も瑠璃波の胸をうつ。
朱色の星は量王の伴侶であった。
だが、それだけなら、瑠璃波は笑って済ませた。
伴侶がいくらおろうと、その伴侶が量王の輝きを増す力を与えるなら、これも量王の運気を盛るにありがたい。
量王の身も心も瑠璃波のものであれば、形だけの伴侶は飾にすぎないのであるが、この飾が量王の運気を増すとなれば、いよいよ、心強い。
ところが、この飾の名前が絹波とはんじられた。
まさか?
と、思いながら天空に妹絹波の星を探した。
量王の星の出現により天空の星の位置はずれこみ、いくつか新しい星が強くまたたきだしていた。
いつもの場所に絹波の星は無く、
薄赤だったほの暗いまたたきが
今、量王の後ろに位置すると朱色に閃光をかえた。
「絹・・絹波だというの?あの星が?あの星が?」
まだ十五。子供でしかない絹の肢体と、
幼さを残しながら徐々に女らしくなってきた端整な顔立ちを
思い浮かべると瑠璃波は
この先、量王の触手が絹に伸びてもおかしくないと思えた。
「いやだ・・」
どこの誰とも判らない女を飾りとして踏みつけるのはいっこうに構わない。
だが、妹、絹波をふみつけにしたくはない。
と、いったら、瑠璃波の嘘になる。
絹波は美しく、頭も良い。
その上、瑠璃波のように形にこそ出なかったが「星読み」の血を受け継いでも居る。是が表にでたら、量王が、瑠璃波を必要とするわけがない。
絹波相手であれば、自分がかざりになる。
自分が踏みつけにされる。
それだけではない。
自分こそが量王に絹波をめぐり合わせる糸口をつくるのだ。
妹の事も両親の事もどこで生まれた人間かもいっさい語らない事だと決めると、瑠璃波は家をとびだした。
そして、思惑通り量王に謁見できれば星読みの才を披露してやすやすと量王の気をひき、量王のかいなに落ちるを望む女である事も量王の恣意に叶った。
そして、量王の女と懐刀になりえた瑠璃波は万が一にでも絹波が量王と出会う事なぞ出来ない策略を練った。
遠く和国に絹をおいやったのに、それでも絹の宿根星は量王を求める。
絹波の宿命だけが量王を望み、量王という男を知りもしない絹波はそれに引きずられているだけでしかない。
現実、量王と褥を重ねる女の心がそんな宿命如きに引下れる訳がない。
殺される前に絹を殺すしかない。
星を読める女であればこそ、こんな決心もむりなかろうことであるが、
妹に永遠の別れを与えるのは絹の宿命どおり、穏星を潰えてから、量王の安泰が確実になってからのことだと瑠璃波は考えていた。
「どうした?」
空をみあげたまま、唇をきつく結んだ瑠璃波を人目もはばからず、量王はだきよせ膝に乗せた。
園庭の合歓の木の下に作らせた宴台に冷酒を置き、量王は瑠璃波の星読みを見守っていたが、星明かりの下でも瑠璃波の表情は哀しげに見えた。
「俺の星もおちそうか?」
そうなったらそうなったまでの事。
どこまで、運命が自分に何をさせたいのか、量王と云う名前の男の生き様を演じてみてみたい。
どこかで、自分が時の流れの中で、偶然、表面に浮かび上がっただけでしかないとしっていた。
「欲がないのですね」
渤国を手中に納め、大陸も統治した。
海の向こうの大国ドーランでさえも今では、迂闊に手を出せない渤国にのしあがった。
「急いては事をしそんじるともいう」
「何を御考えですか?」
瑠璃波は手を伸ばし量王の杯をつかもうとするが、量王は瑠璃波の手をよけると自らの口に冷酒を含み、瑠璃波の口によせた。
量王の口からじかに注がれた冷酒を飲み込んだ瑠璃波を確めると
「部屋にもどるか?」
と、瑠璃波の耳元に量王の誘いが熱い。
返事を返す代わりに量王の胸に顔を埋めた瑠璃波を軽々と抱きかかえると
量王は手に持った杯を宴台において、部屋に向かう歩を進めた。
部屋に入れば、量王はすぐさま寝台に瑠璃波の身体を横たえ、瑠璃波をのぞきこんだ。
「どうして、寂しい顔をする?」
瑠璃波は答えず量王の首にうでをからませた。
瑠璃波の腕によせつけられるまま、量王は瑠璃波の心に乗った。
しばし、量王の物と瑠璃波の物が一つに融合してゆく甘やかな陶酔に溺れ、瑠璃波は量王を失う恐れから解放たれていた。
やがて一つの快楽を享受し、分け与えた男は快い睡魔に身を任せ始めた。
身体の芯に残る火照りは、量王がくれる愛しさのせいである。
量王の胸に縋りつかずにおけない瑠璃波を量王は夢現のままだきよせてゆく。
眠りについたあとにまで、見せる量王の優しさはどこまでも瑠璃波の心を捕らえて離さない。
「だからこそ・・なくしたくない」
呟いた瑠璃波はいっそうかなしい。
いっそ絹波を殺してでも、量王の寵愛を手中に納めておきたいと願う瑠璃波とて、絹波の宿根星の煌輝をみれば、無駄な足掻きでしかないことを重に承知していた。
そして、量王が瑠璃波は受け入れた本当のわけもみえていた。
国の君主となった量王であれば、富も名声も手に入れているのは当り前であるように、褥を共にする女がすでに幾人かいるとおもっていた。
ところが、量王には、そういう類の特別な女がいなかった。
今までどうしていたのですか?
と、問えば「戦に明け暮れていただけだ」と快活に答えた。
女人はおきらいでしたか?
と、問えば、「お前が現われるのを待っていたのだ」と笑った。
量王のその言葉どおりだろう。
違っているのは、『お前』が、瑠璃波でなく絹波であるべきだったという事である。
やはり、量王は絹波に巡り会ったその時から、絹波への恋におちていたに違いないと瑠璃波は思う。
そうでなければ、量王は瑠璃波に惹かれなかった。
姉妹と云う血。よく似た顔立ち。似て非なるものでありながら、量王の魂はは瑠璃波に真に巡り会うべき片割れの匂いを嗅ぎ取ったにすぎなかった。
だからこそ、なにがあっても絹波を量王にちかづけてはいけない。
遠き地でも量王の護りの宿命をはたせうる絹波なら、いっそ、和国との混沌がつづけばいい。
絹波はずっと、間者として和国に留まり、その宿命だけをはたす。
瑠璃波をこんなにも悲しくもあざとい祈りをこめるしかない哀れな女に変えた愛しい量王こそをなくしたくない。
瑠璃波はそっと身体を起し量王の漆黒の髪をなであげると、その寝顔をみつめ、僅かな灯りを漏らしていた灯心の火を切った。
油が軽くくすぶり、薫煙は鼻についた。
量王の静かな眠りを妨げぬ様に手をひらめかせ、部屋に入り込んだ月明かりの照り返しに揺らめき踊る白い油煙をおいやると再び量王の側に潜り込んだ。
旅支度もすっかり整うと有馬は極楽蜻蛉の安気な金持ちの態を装う事にやっきである。
道中でも、道楽者なら、「こういうのだろう」を口に出してみる。
「そこの茶店の団子を買い占めてきてくれま・・いや・買占めてこいですね」
付け焼刃の大店の旦那はやけに丁寧に命令するものだから、
桧田は笑い転げながら、旦那のわがままを宥める。
「そんなにいっぱい、たべきれませんよ」
数馬は有馬が思いつく旦那の豪放ぶりが、「茶店の団子買占め」くらいでしかないのがおかしくて、
「団子ですか?」
と、いったきり、止まらぬ笑いに痛み出した腹をおさえてもまだ笑っている。象二郎も同じく寡黙な男らしくふっと吹きだすと口中で笑いをかみ殺すのに必死になっていた。
絹は、といえば、有馬のき真面目ゆえに、なんでもない一言が大の男をこんなにも朗楽に笑わせるのだと、思うと有馬と云う人間の底知れない純粋さが今までと違って身近に感じられ、
一言で言えば、有馬と云う人間が『可愛い人なのだ』と、おもえた。
当の有馬は四人の笑いをいっこうに気にする様子もなく、
「茶店の団子くらいでは、大店の主人らしくないですね」
と、気がつくと、歩をそのままに腕を組んで暫くかんがえこんでいた。
と。
「ぁ。あれをもってかえりましょう。うちの庭にちょうどいい」
ありもしない庭は広い庭らしく、有馬の指差した持って帰る物は、二抱かえにあまる立派な松で、見上げても十尋のたかさはある。
団子よりは豪勢になったと苦笑しながら数馬は有馬の芝居に乗った。
「旦那さま。一本といわず・・」
道の脇は先から松並木である。
ずらりと並んだこの松を持って帰っても植えれるくらい広い庭の持ち主ということになるのだ。
数馬の乗った芝居に合わせ、有馬もふんふんとうなづくと有馬の次の科白を吐いてみた。
「では、もう一本もってかえろうか」
とうとう一行の歩が止まる事になる。
道の真中で腹を押さえて笑い出した四人が静まるまで、有馬は何がおかしいのだときょとんとした顔でつったっている。
是がまた、おかしくてわらえてくる。
随分、長い間、待たされてやっと、笑いが収まっても、有馬は飄々としたもので、懲りず
「ああ。絹さんには、都に着いたら・・」
少し考えていった。
「かんざしをたくさんかってあげましょう」
四人が頭に何本ものかんざしを差し込んだ絹の姿を思い浮かべて、またもわらいだしたのはいうまでもない。
これ以上荒唐無稽な有馬の「豪放な金持ち」に、つきあっていては一歩も歩がすすまない。
「有馬さんには…け」
けちん坊の金持ちの方がいいのではないですか?といいかけて数馬は言葉を止めた。有馬にかかったら、けちん坊の実態がどうなるか、空恐ろしく思え、けちん坊に替わる言葉をえらびなおした。
「有馬さんは、お金を大切にするつつましい金持ちの方がにあっています」
数馬の進言に有馬は
「そうなのか?」
と、残念そうだったが、自分でも納得すると見えて
「それではそうしよう」
と、以後は妙な芝居もどきは演じなくなった。
どこまで本気でどこまで冗談で皆を笑わせた有馬だったのか判らないが、とにかく思ったら一生懸命になるのは、絹に数馬をよろしく頼むといった時と同じで、この人はいつでも真剣なのだと絹は思った。
真剣な人だから、数馬の真剣さを真っ先に見抜けたのかもしれない。
絹はいつの間にか数馬の絹への恋情を本物だと確信している。
ふと、数馬を見詰めた絹の胸に昨日の数馬の甘事がよみがえっていた。
絹の視線を感じたか数馬がひょいっと絹をみた。
数馬の瞳が絹の視線と絡むと絹は思わぬ胸の高鳴りを覚え数馬の瞳から目を逸らしてみたが、胸の鼓動はすでに絹の頬をそめさせていた。
ふたりの様子を目で追っていた有馬がすこぶる上機嫌になった。
二人の間で芽生えたものが有馬を喜ばせているとも知らず数馬は有馬の機嫌の良さをからかってみた。
「やっぱり、慎ましい金持ちの方が有馬さんには自然ですよ。楽しそうです」
「そうですねえ。自然のままがいいですね」
暗にふたりの仲が自然に成り始めているのだと答えて、有馬は歩みだした。
大店の主人を三人がかりで警護する旅道中も渤国の間者が横行する今ならさして奇異にはうつらないだろうとは思うものの、やはりぞろぞろと固まり歩く一行は人目につく。
が、そのお陰で繁華な町に入った夕刻には、宿に困らぬ引き合いの声がかかった。
物騒な世の中はめっきり、旅客を減らし、宿の主人自らが街道に立ってめぼしい客を物色している。この主人が五人もの人数の旅人を逃すわけがなく、有馬達にもみでで近寄ってくると
「お宿はおきまりですか?次の町まではまだ半刻も歩かねばなりませんよ。観れば女子の方もいらっしゃる。大事をとって夜道になる前にこちらで逗留なさってはいかがでしょうか」
流暢に一気にまくし立てる。
渡りに船の申し出であれば、有馬も
「そうですね」
と、頷くと数馬らに「そうしましょうか?」と同意を求める。
有馬を御社の瑠墺にあわせるがための旅である。旅の主軸である有馬に多くの権限が在るのだから、有馬が決めればよさそうである。なのに、まるで気弱そうに決定をこちらにゆだねるのである。
おかしなものだと絹は思った。
こんなことぐらいにあやふやで決断力の無い有馬であるのに志士の信奉を集めるが不思議に思えた。
だが、こんな絹の見方を変えたのは数馬だった。
数馬は小さく「有馬さんらしい」と呟くと
「意は同じです」と、符丁のような答えを返した。
「わかりました」
と、頷いた有馬を見詰めた絹は数馬のいう『有馬らしい』と、『意は同じ』の裏に流れる物をじっと考えていた。
絹が考え込む様子にすぐさま気がつくのは絹を恋する数馬ゆえのさとさであるが、何を考え込んだかまで見通せるのは絹だけのせいではない。
「気の優しい、あんな男がなんでいいのか、わからないんだろ?」
気弱そうに見える有馬の性格は、絹に不可思議だと思わせるに充分だと数馬は見通してもいた。
「ええ」
絹は小さくうなづいた。
「人の思いを大切にしているからだ」
「ああ」
絹は数馬のいう意味を理解した。
そして、志士の意志もまた、自ずからわくものであり、是が『意は同じ』であり、有馬はけして、強要や説得で志士の志を作り上げたのでなく、今の宿決めと同じように、私の意志に添う貴方ですか?と、尋ねただけなのだろう。
思い如何こそを問われた志士は「同じ意でおります」と、答え、有馬の心に己の心をむすんでいった。
思いをこそ掬い、取りまとめることが、どんなに強い結束を生むか。
量王とは、違う形で人の心を纏める有馬は、やはり量王を阻む存在になる。
いずれ、刺し違えても・・。
この時、絹は自分のやるべき事をはっきりと見定めた。
宿に着けばいっさきに上り框で足をすすぎ、板の廊下を素足で踏みながら有馬は宿屋の主人をよぶ。
何を言うか知らないが、今度は有馬が一人で采配を振るっているのは確かで
有馬の言葉にふんふんと頷きながら宿の之主人は確かめるように数馬と絹を見返ると「わかりました」の声だけが急に大きくなった。
宿屋の主人の様子からもよほど馬鹿でもない限り、有馬が宿の主に何を言ったか判る。
案の定、宿の主は数馬と絹に此処でお待ちくださいと言い置くと有馬達三人
をおくの部屋に案内していった。
「どうも、お前と俺は夫婦者ということらしいな」
歴然の事実になっている絹との結びつきである。
是を妙に絹だけに別の部屋をあつらえても、数馬の事だ。どうせ、夜中に絹の元にしのんでゆくだろう。こそこそと妙な隠密行動を取らさせるより、あっさり、夫婦者とした方が早いと考えたに違いない。
「ふん」
絹が鼻でせせら笑って見せた。
「貴方にゃ、よございましょうけどね::」
「ああ。俺はうれしい」
絹の精一杯の皮肉を数馬はものともせず、絹ににじりより、間をつめた。
「絹もいやでなかろう」
今宵の男と女の事を匂わせられた絹が、数馬に間向こうから覗き込まれては返せる返事もなくうつむくしかなくなった。
絹の語るに落ちた態度は数馬を大いにまんぞくさせ、絹のための言い逃れを
つくる気のくばりまでみせる。
「おまえにすれば、有馬の寝首をかけなくて無念だろうが、象二郎は俺にお前をまかせられてたかいびきをかけるだろうさ」
有馬が絹を恐れて、数馬に絹をみはらせるためとは思えなかったが、
「念のいったことで・・」
と、憎まれ口を返すことはできた。
ぼんやり廊下に立ち尽くしている二人の間に妙な雰囲気が漂い始め、やけに気詰りを覚えるがいっそう何かを口に出す事が気まずさを取り繕いたがっているようで絹は黙ったまま真正面の壁をみつめていた。
数馬も絹の綺麗な横顔を黙って見詰めていたが、堪えきれないと観念した。
「綺麗だ」
と、数馬にいわれて
「なにがですか?」
空とぼけてみた絹だったが、絹の神経はひりりと逆立って数馬の視線ひとつさえもが針のように絹に食い込んでくるほど鋭敏に数馬の存在を全身で意識していた。
もう少し遅く宿の主の『お待たせしました』と云う声が聞こえていたら、こんな場所で数馬の胸に抱きすくめられる事をもいとわぬ絹になってしまった事を数馬の抱擁が絹に教えていたであろう。
「ご新婚さんだそうで・・」
宿の主は絹と数馬に御目出度いといわんばかりに頭を下げると、今度は絹にだけそっといった。
「道理で・・・。おしあわせそうにおみうけしたのですよ」
どうふれこんだかしらぬが、有馬のせいで絹は自分から符丁あわせをしなければならなくなった。
「あ。はい」
慌てて答えた絹に主人は
「お食事は皆様一緒の方がよろしゅうございましょう?」
一ところで食事を済まして新婚は部屋に戻る方が良いといった。
夕餉の膳と呼ぶに足りる馳走も客が少ない今を乗り切る主人の苦肉とみえる。
思いの他趣向を凝らした馳走につい、「酒」の声が上がるとちびりと飲み始めた有馬は、今更に唐突に絹の歳をたずねた。
「じき、十九に成ります」
「この国にきたのは?」
「1年半もたちましょうか」
ふうむと有馬は唸った。
「見も知らぬ異国に来て、さぞや、不安だったでしょう?」
「いえ」
と、答えた絹だったが有馬の言う事は当時の絹の不安そのものだった。
「そうですか。でも、もう・・・」
有馬は鮎を毟り食う数馬にとくりをふってみせるという。
「こころづよきことでしょう?」
今は絹を真摯に思う男が居る。これほど心強い事は無かろうと絹の強がりな答えと見ぬいていう。
「あ?はい。ええ・・・」
確かに数馬が居る。どこで朽ち果ててもいいと覚悟して量王に命を投げ出したはずの女を思う数馬がいる。
突然、有馬はいいだした。
「絹さん。死んじゃいけませんよ」
「え?」
何よりも絹を惜しむ男は量王が為に死をも選ぶ絹であってはいけないという。
「なにがあっても、死んじゃいけない。いいですね?」
量王より、国より、何より、絹こそが大事。
有馬の単純な言葉に、はからずも、涙が零れて来るのは、一人異国での不安を乗り越えた絹の量王への忠誠を見返られる事もない一抹の孤独を慰めたせいか。
有馬はもう一度言葉を重ねた。
「何よりも絹さんが大事。量王への忠誠も絹さんがいきておればこそ。こんな事などにのつぎなのですよ」
何よりも絹こそが大事とかさねていった有馬は数馬をじっとみた。
有馬の瞳は、その「絹こそが大事」をわが事に思うこの世でたった一人の本物の男が数馬なのだと言っていた。
『自分を第一義に考える?・・・』
こんな事を平気でいう。世の安泰は君主による。国の安泰があって初めて民がいきてゆける。
だが、有馬の言う事はむしけらほどの存在でない民がわが名を絹だといえという。そして、この虫けらに・・命をかけるおとこがいるという。
「絹さん。いきてこそです・・・」
にこりと微笑んだ有馬は赤子を胸に抱くしぐさをみせた。
量王のために命を散らせるか
新しい命をはぐくんでゆく平凡な女としていきてゆくか。
絹の選択の道はいくつもある。
「自分のためにいきるべきです」
有馬は少し淋しく付け加えた。
「それが量王の忠誠であっても、それはそれでいいのです」
うんと頷くと数馬を見た。
絹にとって、量王への忠誠を捨て去って掴み取るだけの価値がある男だと数馬を信じた有馬はもういちど、うんうんとうなづくと絹をみた。
「あれは、信じた物を疑わぬ馬鹿者ですから、貴方よりやっかいなんですよ」
絹が尽くす量王への信より、数馬の絹への思いの方がよほど深すぎると笑う。
「あれに、ほだされましたから・・」
有馬に何を言った数馬か判らない。
だが、数馬の絹への思いを諦めさせる事は、絹の量王への忠誠を棄てさせるより難しいと解ったと有馬は言う。
「まあ。ようは単純な子供です。でも、困った事に無邪気すぎる子供は裏切れなくなるものです」
数馬の事を言ったつもりの有馬の言葉が有馬の身のうちの無邪気な子供の事を客観的に語っているとは気がつかぬ事が面白くて、絹はほほえんだ。
そして、絹は有馬のように数馬を見詰めてはじめている自分にまだ気がついていなかった。
「それでも、うらやましいかぎりです」
恋と国への思いを一挙に胸のうちに掴んだ数馬はしあわせものである。
「数馬は今、死んでもいいくらいしあわせなのでしょう」
有馬は何気なくいいはなったが、いけないと思った。絹はいけないと思った。
数馬が死んではいけないと思った。
それは、同時に数馬を愛し始めている自分だときがつかせた。
姉、瑠璃波の思いを理解する時がとうとうやってきたのかと、絹は量王を想い涙ぐんだ姉が綺麗だったことを思い出していた。
軽く酒を煽った数馬だったが、やがて、絹を促すと二人の部屋に戻った。
「絹」
絹の名をよんだまま数馬は黙った。

