されど・・・。
黒龍とて・・。
どちらかを択べば・・どちらかが
天子様に討伐されるやもしれぬに・・
きのえの裁量がさだまるはずもなく
勝源の問いにきのえは黙り込むしかない。
「定まらぬかや?」
きのえの沈黙はつまり、そういうことになろう。
琵琶の湖のほとりの村長の娘のただの一言で
神の命を絶つやもしれぬ。
神選びの裏側に神殺しという重すぎる責荷があれば
きのえとて、口にだす決断もつけきれまい。
これが、普通の婿選びでもあらば・・。
勝源の苦渋が口元を歪ませる。
まだ、十八。
娘という雛が妻になり、母になり、女としての人生を歩み始める。
人して、ごく平凡につつましく、ありふれた、平穏な日々を・・
なぜ、きのえだけがおくることができなくなる?
成ってしまったことは、今更取り返しがつきもしない。
無駄な悔懇だとわかっていながら、繰言のように
無念が浮ぶ。
人として、幸せな道をあゆむ筈だった、
歩ませてくれる筈だった藤太まで見初めた勝源の
きのえに寄せた情愛さえ、いまや水泡に帰し、
あわれ、娘は己勝手に思いをたたきつける神を顧みて
沈黙を護らざるを得ない。
「き・・きのえ・・や」
用心深く小束を勝源に渡しながら婆さまがきのえを呼んだ。
うろんげに婆をみつめるきのえの
その目の中をのぞきこんだのは、
もう、きのえが自害を考えないと確かめるためだろう。
「きのえ・・や。
男と女にの・・神も人間もありはしないわな?
ならばの、おまえも相手を神じゃと考えんでも良いわいな。
おまえもおなご。
おなごの本心だけ、みつめればよいに」
婆の言う事はひどく簡単である。
簡単だからこそ核心をついている。
裏を返せば神がとりあっているものは、「女」である。
その神を択ぶのは
[正義][大儀][憐憫]などという類いの
もろもろのあくたのごとき飾りや考えではない。
言い換えれば神も[男]として択ばれてこそ・・であろう。
「どちらかを択んだらどうなる、こうなる。
こんなことはどうでもよい。
お前はおなごとして、どちらを択ぶか
その気持ちを言わずとも良い。
天子様にだって言わずとも良い。
だいじなのは、おまえが本心をさだむることじゃ。
勝源の言いたいことはそこじゃに」
くいいいるように婆さまをみつめていたきのえの口元がかすかに開いた。
「お・・」
婆もきのえの口元をみつめ、きのえが語ろうとする言葉を待った。
「女子・・の・・本心?」
女子の本心・・。
婆は簡単に言うけれど、きのえは戸惑うばかりである。
白峰への情は女子ゆえに湧き出るものではないのか?
必死にきのえを追う白蛇神をにくからずと思うようになってしまうのは
女子のさがが生み出す女子の本心ではないのか?
黒龍とて・・黒龍とて・・
結局、きのえという女は睦み事に翻弄されるただの淫猥?
きのえの惑いを見透かすと婆は笑い出した。
「ふたりの男とちょっと、深い仲になったが、どうじゃという?
それで、思いがさだまらぬかや?
それはのお・・
きのえが今しか、見ておらぬからじゃ
相手を見て
自分をみておらぬからじゃ」
婆さまの言いたいことがきのえには見えてこない。
判じ物を解こうにも
今・・事実・・2人の神は争うばかり。
今を見ず、先を見ろといわれても、見れるわけが無い。
「おまえはの・・まだまだ・・小娘でしかないわ・・」
婆の口はきのえをあざけてはいない。
むしろ、小娘でしかないきのえのおぼこさを喜ぶかのような
笑みがこぼれていた。
女の本能に引っ付かれるは、あるいは過酷な事でもある。
過酷な心根に捕われきってないは幸いともいえる。
おなごの本心がおなごを牛耳ってしまっていたら
きのえはさっさと残酷な選択を平気でやりのけていただろう。
小娘では・・わかりえもせぬ
女の本心を婆は一言で紐解いた。
「きのえ・・
おまえ、誰の子供を生みたい?」
婆の一言は真理である。
悠久の時の流れの中に
およそ、生きとし生けるものは
己が生きた証を刻み付けることは出来ない。
だが、ただ、ひとつの例外がある。
それが血である。
愛するものと愛されるものが融合し
血が受け継がれ
未来永劫、伝えられていく。
生命の起源が母であるならば、
母が護り、伝えてゆくものこそ
血である。
己が生きた存在の証である
血の継承を望むとき
女はより尊い愛をつかもうとする。
業とも欲ともいえる
女の本能は己の存在を量りにかける。
時に命をかけて子を産む女だからこそ、
「誰の子を産みたいか」
この答えが究極を見せ付ける。
くっと引き結んだ口元は
答えを胸の奥に秘めた証拠であろう。
きのえは、婆の言った口に出さぬで良いの言葉に押され
素直に自分の心を覗きこめた。
呵責も懺悔も悔恨ももたず、
むしろ・・わきでてくるというが正しい。
産着の中のつぶらな瞳を覗き込む男の姿は
黒龍しか、居ない。
憧憬がそのまま、溢れかえり
ひたむきで、無垢なきのえの思いが蘇ってくる。
吾は黒龍の花嫁になる。
この思いはいつだってきのえの心に根を張っている。
それを・・
実をつけようとする樹木を根っこごと
とりはらおうとするには
心ごと、
心という地面にはえた樹木をとりはらおうとするには、
心ごと・・・、
どこかに葬るしかない。
そんな事などできるはずがない。
できるはずが無いから
きのえは先刻死を掴み取ろうとした。
心をだに、なくしたくないばかりに・・・。
死だけがなにもかもを解決してくれるように思えた。
己の心のありさまも
神の争いも・・・。
だが、
勝源に諭され
婆さまに知らされた。
生きておればこそ
開けてゆく。
生きてゆかねば、
命はつむがれぬ。
「誰の子が欲しいか・・」
今、白峰の子を宿しているきのえでありとても、
黒龍は
間違いなく、きのえを望む。
それが・・
あの争いの姿。
命をかけて証をたてようとする黒龍を捨て置き
死ぬるは
婆さまの言うとおり
早まった事でしかない。
たとえ、今、白峰の子を宿そうとも
己の心まで、縛られてなるものか。
琵琶の湖の生きものたちにあふりをあげおとす、
おろかは黒龍とて、熟知のうえ。
むごいほどの冷徹さで掴み取るものの価値を見据え、
黒き神はきのえに懸想のあかしをみせているというに、
なんで、
なまはんかな酌情におのれをゆさぶらせねばならない。
きのえ本来の勝気な性がその瞳に強い意志の光を宿らせる。
押し黙ったままの娘の瞳の中に
生き抜いてゆくものだけが持つ確かな輝きがもどってきたと
判ると勝源は立ち上がった。
「今から・・行く。明朝には、都にはいれるだろう」
勝源が急ぐのも無理が無い。
「今なら・・・風が良い」
琵琶の西岸に向かって風が流れている。
あふりを掻い潜ろうにも、昼間には湖が暖まり
上昇した熱気が空に逃げ
熱気が逃げた場所をめがけ
比叡おろしの余風が流れ込む。
目に見えぬ空気の流れにのり
あふりはところかまわず降りてくる。
それが夕刻になると
湖が冷え出し、暖まった気流が戻ってくる。
勝源のいう風が良いとは、
気流の変わるわずかの隙をいう。
海で言えば、丁度凪にあたる。
気流の凪のまに琵琶街道をつっきってしまえば
あとは、どうとでもなる。
山を越え難波津の都まで
いくら急いで夜通し歩きとおしても、
朝までいけるかどうか・・。
難波津までは四十里近くある。
舟を出すしかないと覚悟をきめると
勝源はみのをひきだし、あふりを防ぐための
油紙を身体にまといつけた。
風がかわらぬうちに争いの下を潜る抜けしかない。
とるものもとりあえずというが
乾し飯と竹筒にいれた水といくばくかの路銭を受け取るいとまさえ
おしんで勝源は湖の岸に走った。
幼き頃から慣れ親しんだ櫓である。
よほど、歩くより早く、湖のわずかの汐のながれも熟知している。
よっぴけば、星をたよりにいくも知っている。
はずみをつけ、ぐいっ湖面におしだした舟にのれば
勝源のすがたは婆の目にもきのえの目にも
またたくまに小さくなっていった。
「父様は夜通し、舟をこぎなさるんじゃろうか?」
そうするしかあるまい事をわざわざ口に出して
たずねるきのえの手は父、勝源を拝んでいた。

