舞台がはねたというのに、帰宅の足取りが重い。
少し前までなら、サーシャと並んで帰る時刻は
充実感につつまれていた。
家に帰るという事は、ひいては、明日への準備。
また、半裸身でおどるために身体を休めるだけ。
食事・・・をとって、風呂に入り、それから・・・。
なにもする事が無くなっている。
とりとめないお喋り。
サーシャに癒されていたくつろぎの時間も今は無い。
物思いが流れるままに
とぼとぼと歩くターニャの目に映る町並みも暗く
店々の多くが戸を閉めている。
「あ・・」
うっかりしていた。
イワノフとの話しのあとに、
パンをかっておこうとおもったのに、
そのまま、劇場にはいってしまって・・・。
いつものパン屋は・・・もうすっかり戸締りをし終えている。
無理の無いことだろう。
ただでさえ、
朝の早い仕事。
こんな遅くまで店を開けているわけが無い。
どうしようか・・・。
最近、増え出したコンビニエンスストアも、
ココから歩いてだと、15分。
それも逆に引き返さなきゃならない方向。
ココまで、戻ってくるのに
30分・・・・。
それから、家まで・・・。
もう・・いいや・・。
わずかな、時間でしかないと思うけど
それさえ・・・もう・・だるい。
家に帰れば・・なにか・・あるだろう・・・。
ターニャは明日まで、空腹を辛抱できるだろうと
向きを変えず、歩き出した。
暗い部屋。
灯りをつけるのも自分。
まだ、薄ら寒い季節の深夜の部屋は
人気がなかった分いっそう、冷たく寒い。
小さな溜め息をついて
冷蔵庫を開けてみる。
ヨーグルトと卵と牛乳とレタスとベーコン。
おかずとデザートがあるけど、肝心の主食になる物がない。
パスタ・・もない。
小麦粉・・は?
パンケーキでもと覗き込んだ袋の中にわずかに小麦粉が残っていた。
サーシャがキエフにいってしまった後
ターニャがアフターで踊るようになって
買い置きもあまり足してない。
パンを千切ってミルクで飲み込んで
なんだか、マトモに食べてないから
なにも、買ってないのか、
買って無いから・・マトモに食べてないのか。
いずれにせよ・・
なにか、パンケーキ?でもたべるしかない。
ふと瞳をずらしテーブルの上のサーシャの手紙を見つめる。
なんだか・・・。
それも、今は読みたくない。
きっと、栄光への足跡でしかないサーシャの手紙は、
今のターニャが読むに
引き比べてしまう自分があまりにも惨めでみすぼらしい。
明日・・。
今・・それを読んだら、きっと、ねたみとうらやましさで・・・
悲しくなる。
サーシャの手紙は暖かなまなざしで読みたいと、思う。
きっと、くたびれすぎてるせい・・・。
ゆっくり寝れば・・・もう、大丈夫。
明日・・
明日・・・
朝一番で読むからね。
サーシャの手紙にわびると
ターニャはパンケーキをつくるために、
まず、エプロンに手を伸ばした。
午後から新しい出し物の打ち合わせがある。
だから、ゆっくり、寝ていればいいのに
やっぱり、目が覚める。
起き抜けに珈琲をいれて・・・。
そう。
朝のパンがないんだ。
忘れないためには、先手をうつのが一番。
サーシャの手紙を読んだら、
パンを買いに行こう。
今日の予定が、出来た。
とても単純なことだけど、
買い物にでかけるのは、
なんだか、心弾む。
日差しのやわらかい朝。
そろそろ、ライラックが咲き始めて
きっと、通りも甘い香りに包まれている。
『あたしって・・・単純よね』
芽吹きの季節は心を和ませる。
でも、もっと、私は簡単。
焼きたてのパンのかぐわしい匂いが好き。
だって・・
パンは命を紡ぐ糧だもの。
きっと、あの香りに生きてるって
実感がわくんだわ。
これって、単純じゃないかも・・・。
なかなか、哲学的だわとターニャは苦笑をこぼす。
でも・・・。
ふと、ターニャの中にちかりとひかる思いがわく。
その実体をつかもうとすると、
もやのように胡散霧消して、
それが、なにか、分からないまま、
ターニャはサーシャの手紙に手を伸ばした。
少し深呼吸してサーシャの手紙を開く。
***姉さん・・・いろいろ、心配と負担をかけてしまってごめんなさい***
いきなり殊勝な妹が手紙の中に現れる。
「やだ・・。らしくないよ」
文面に返事して次を読む。
***姉さんのことだから、仕送りをしてやろうって、また、無理してない?
え?そんなこと思ってなかった?のに、それじゃ、ねだってるのも、同然?****
「うん・・・それは、強請ってるよ〜〜」
****だけどね・・・。
大丈夫だよ。と、いうのもね・・・*****
そこまで、書かれた文面は次の便箋に続いてる。
「やあね・・・。もったいつけちゃって・・・どう大丈夫か・・次?」
便箋をめくると・・・。
***驚き・・・驚き。
まさかそんな話があるなんて・・****
「あら?らら・・なによ?」
***キエフに来て、最初に、オーディションがあったんだよ。
なんのオーディションだと思う?***
「なんだろ・・・」
サーシャのニュースにターニャの目が奪われ
手紙への返事も口から出なくなる。
ターニャは次の内容を何度も読み返す事になった。
***映画を創るんだって。
アラベスクってタイトルで
ソビエトの舞踏家達を集めて、
大スペクタクル・・。
ストーリーはアラビアンナイトから
アレンジするらしいんだけど・・・。
その映画のヒロインのオーディション。
だったんだけど・・・。
*****
どうやら、くだんのキエフの大物舞踏家が自ら監督件主人公。
相手役のヒロインを以前から捜していた。
候補は何人か上がった。
外見も踊りの実力も兼ね備えるものの、イメージにピッタリとはいかず、
見切り発車するしかないと、候補者を絞り始めた時にイワノフから、サーシャのビデオが送り届けられた。
この時点でもう、アラベスクのヒロイン有力候補の最前線にサーシャがたっていたのは言うまでも無い。
形だけのオーディションを行い、
満場一致でサーシャに白羽の矢がたった。
***来月から、クランクインするって、
もう、毎日踊りのレッスン。
おまけに、
アラビアの象形文字の中に踊りの基本スタイルがあるって、アラビア文字を毎日勉強してるんだよ。
でね・・・。
今日、契約書を書いてきたんだ。
ビックリするよな・・金額だよ。
姉さん・・あのね・・。
もう、アフターで踊らなくても
養成所でも建てて
小さな子供達に踊りを教えるとかさ・・。
そんなこともできるんだよ。
考えておいて・・・よ。
そのほうが姉さんの踊りへの情熱を
活かせると思うから・・・****
サーシャのニュースの大きさよりも
ターニャの胸をえぐったものがあった。
『情熱・・・?』
そんなもの・・ない・・よ。
そんなもの・・ないのに・・
養成所?
そんな事にあなたのお金を使わせるなんて、
もったいないだけ・・・。
もっと、あなたの役にたつように・・
使わなきゃ・・』
「あ?」
サーシャに語りかけた心の底に、
きらりと一条の光が差し込んだ。
さっき、胡散霧消した閃きと同じもの。
それがくっきりと姿を現していた。
『役に立つ・・?』
それが、ターニングポイントを作り出すキーワードだったとは、ターニャは思いもしなかった。
陽射しの中に歩み出たものの、パン屋がひどく遠い。
ターニャの頭の中に渦巻くものと対話しながら
歩けば、自然と足並みが緩む。
サーシャのニュースは姉としてまず、嬉しい。
だけど、養成所を造る・・なんて考えはターニャにはない。
なによりも、自分の踊りの才能が認められていないのに、
ううん・・・。
才能が無いのに、認められるわけも無いけど。
それでも、
認められるほどの才能も無い人間が
人に踊りを教えようなんて
思いあがりもいいところ。
たとえ、自分の稼ぎでスタジオを作れるほど資金ができたとしても、
それでさえ、
考えもしないだろうに、
妹におんぶされて、
道楽のように、
濡れ手の粟を芽吹かせて・・・
はたして、
充足するだろうか・・・。
するわけがない。
どうすれば・・・。
何をすれば・・・。
心から満足できるだろう?
今の私は・・もう、踊りからにげだしたい。
それだけ・・・。
だけど・・・。
ターニャはしごく当然の事態にやっと、目をむけた。
「だけど・・・?
だけど・・・。
サーシャへの仕送り・・がある?
ううん。
もう・・・サーシャはひとりで、十分にやっていける。
だったら・・
私・・?
私は無理にアフターで踊らなくてもいい?」
つい、昨日までは、
たとえ、アフターであっても
踊りを続ける理由があった。
しかたなくでも、
どうしょうもないからでも、
とにかく、
踊りを続ける理由があった。
サーシャの自立。
アフターで踊り続けている限り、寄せてくるパトロンの申し出。
そのふたつの事情が
踊りを続けていく原因を打ち砕いていた。
ターニャに残ったのは
いくつもの壁の影に隠されて
読み取ることが出来なかった本心。
踊り続ける為のなんの理由もなくなった今、
ターニャの本心だけが問われる。
「踊りたいの?
やめたいの?」
自分に問う言葉がいっそう、
ターニャの足取りを重くする。
やめるに、未練がましく、
続けるに覇気を欠く。
やめるにたりる納得もない。
続けるだけのひたむきさもない。
たんに・・・。
長年慣れた「踊りのある暮らし」から、
自分を引き離すのが、苦しく、怖いだけなのかもしれない。
つまり・・・惰性?
それとも、
保守的?・・・。
自分の生活を・・
環境を・・・
今まで、積み重ねたものを・・・
くずしたくないだけ・・・?
『私って・・こんなに、臆病な弱虫だったっけ?』
自分の可能性に手を伸ばそうとする間は
きっと、人間は成長する。
ただ・・の足踏み?
停滞?
また・・歩みだせる?
歩みだしても・・・
もう、踏み出せる舞台はない。
才能の薄い人間を舞台にいつまでも立たせておくほど
舞踏の世界は甘くない。
それを、身をもって知った今。
華のあるうちに、引退するのが引き際なのかもしれない。
「潮時・・・なのかな・・・」
アフターに行くしかない自分への
イワノフのプロポーズが
いっそう、ターニャを惨めにした。
間違いなく、
才能の無い自分とレッテルを貼られたようなもの。
それなのに・・・。
イワノフの求婚を受けたら・・・。
才能のなさのせいで、踊りから放逐され、
あげく、行き場所をなくして、イワノフにすがるしかなくなった。
そんな自分でしかないと思えて、
救いの手を差し伸べるイワノフと思えば思うほど
救われる自分の哀れさがいっそう深くなった。
踊りに関わっていれば、
いつも、自分の惨めさと向き合わされる。
『カタリナ・・・。
あなたのいうとおりよ。
私は自尊心ばかり強くて
踊りたい・・・だけじゃ・・・やっていけない。
かといって、
やめるのさえ・・・自分が納得出来ないから
それも・・できない。
あなたの言うとおり・・・ちゅうぶらり・・。
中途半端・・・』
いつのまにか辿りついたパン屋のドアを開くと
ベルがからりんとターニャの来店をしらせ、
パン屋の主人の元気な声がターニャを歓迎していた。
「やあ、いらっしゃい」
すがすがしい笑顔は・・・
きっと、自分の仕事に誇りと自信があるせいだろう。
「あ、いつものを・・・。半斤・・・2、5cmにスライスしてちょうだい」
おずおずと、注文をつたえると、
主人はぺこりと頭を下げた。
「もうしわけない。
朝の釜のぶんが全部うれてしまってね。
次の分を焼いてるんだけど・・・。
もう少し時間がかかると思うんだ。
急ぐのかな?」
「いいえ・・・大丈夫よ」
「そう?だったら、そこの椅子にでも座ってまってる?
紅茶を出すよ。
用事があるなら、そいつを先にすませてくれてもいい。
ター・・・えと、ターニャさんの注文のパンは
ちゃんと、とっておくから・・・」
人恋しさも手伝うか、
主人の温かい気配りが身にしみた。
紅茶を飲みながら
この居心地の良い店でパンが焼きあがるのを待つことにした。
まだ、温かいパンを胸に抱かえたターニャの
行き先は決まっていた。
イワノフの事務所に行こう。
そして、
アフターを辞めると宣言しよう。
パン屋で熱い紅茶を飲む間に
ターニャのうろこがおちた。
サーシャへの仕送りという目的がなくなった今。
「踊りは、無くても生きていける」
と、ターニャの根底が変わった。
そして、根底の変化はターニャの意識をも、
侵食しだした。
簡単な真実が、パンを待つターニャをゆさぶった。
このパン・・・。
どう?
人が生きていくために
どんなに役にたっているか・・・。
踊り・・・。
どう・・・?
余暇と余裕と・・・。
人類文化の繁栄の副産物。
生きるに必須のものではない。
自己満足と自己追従。
なにかの役にたつだろうか?
人の暮らしをささえるだろうか?
命を、
生活を、
ささえるだろうか?
ひきくらべ、
このパンは・・・
私の命を紡ぐ糧・・・。
地球という大きな生命体のなかで、
人の一生など、ほんの、またたき。
そのまたたきの間に
ちっぽけな自分の満足に終始して、一生を終る?
そんなの・・・なんだか、虚しい・・・。
生きている間に
なにか・・・、
自分以外のものの役に立って・・・。
ちっぽけな自分の事なんかに、
こだわっていられないほど、
なにかの・・・
役にたつ・・・生き方・・・。
そう・・。
たとえば、サーシャの言うとおり。
ベーコンエッグを焼いて
愛する人の生活を支える。
あるいは・・・。
踊りへの思いをすてられるほどの
相手にめぐりあえない不幸。
自分の事などかえりみないほどの
相手にめぐり合える幸せ。
執着するものごとが、
自分・踊り・というのも、
あるいは・・・
悲しい生き方でしかなかった。
なにか・・・。
人の役にたつ・・・生き方。
もう一度。
人生・・踏みなおしてみてもいいかもしれない。
まだ、舞台には当分早い時刻に現れたターニャにイワノフの動悸が早くなる。
昨日の今日。
大人しそうに見えて
激情家のターニャ。
昨日の啖呵。
あの捨て台詞。
憤怒解きやらぬ頭で
パトロンをチョイスしてきたのでは
なかろうか?
まさかの思いがイワノフを包み
ターニャを前にしても、まだ、不安の鼓動が
耳に届いていた。
「突然ですけど、私、此処をやめさせていただきます。
今までイロイロ、お世話になって
そのご恩もおかえししないのは、
心苦しいのですけど・・・」
切り口上の物言い。
なにか、固く決心したターニャと伺える。
「辞めるのは構わないが・・・
この先・・どうするのかね?
次の就職先はきまっているのかね?」
もしも、ターニャの口から
パトロンの誰かに話をつけてほしいと
いわれたら
どうすればいい?
13人の申し込み者の名前を頭の中で
確認したイワノフに
一人の男の名前が浮かび上がってきていた。
さる若手事業家。
独身。
この出会いが結婚に結びつくこともある。
そういったのは、イワノフだが
ターニャの生真面目さから考えると
愛人でしかない契約・後援を承諾しはしない。
と、なると・・・。
彼との縁をむすぶ可能性が一番高い。
ターニャにとっても、安定した生活。
彼ならば、ターニャを気に入れば・・
エンゲージリングを渡すかもしれない。
ターニャの可能性をにぎりつぶすわけには、
いかないのだ。
ターニャの口から彼の名前がでたら・・・。
私は・・
彼に告げる・・しかない。
ターニャが承諾しました。と・・・。
だが・・・。
はたして・・。
伝えられるだろうか?
「イワノフさん・・。
そうやって、いつも、心配ばかりかけているのに、その優しさに甘えてばかりで、
もうしわけないのですけど・・・」
ターニャが少し微笑んだ。
「私・・パン職人になろうと
決めたんです」
「え?」
あまりにも予想した答えと違うと
何を言ったか
もう一度確認したくなる。
「パン?踊りは辞める?
誰かと契約を交わすんじゃないんだね?」
ターニャはいっそうくすくす笑い出した
「パン職人と契約を取り交わす後援者がいますか?」
いいかえれば、契約者を破棄するために、
アフターの踊りに付随してくる物事もろとも踊りを辞めるに等しい。
「また・・いったい、どうしたのかね?
どういう心境の変化だろう?」

